12-222「神のご性質にあずかる恵み」 ペテロ第二1:1~11  (F123) 2024.10.27

                                  
お早うごさいます。
今日も、ご一緒に、全能者であり、救い主イエス・キリストに 
 礼拝を捧げられる恵みを感謝します。
ペテロの第二の手紙を読み、学び、神のみ言葉の糧を戴きたいと思います。
時を刻むように、小刻みに、
 牛が餌をモグモグゆっくりと食べるように
 私たちは神のみ言葉を反すうする思いで、前後の文脈を重視しながら学びたいと思います。
先週から私たちは、ペテロ第二の手紙を学び始めました。
先週は、1節と2節から『増し加わえられる恵みと平安』と題して、み言葉をいただきました。
今朝は、3節と4節から
 “神のご性質にあずかる者となる”との驚くべき恵みについて考えたいと願っています。

<祈り>

1節と2節で、ペテロは、迫害によって祖国を追われ、国外に離散している兄弟姉妹たちに
 “……私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ”と励ましつつ、呼びかけています。
 “神と、私たちの主イエスを知ることによって、
  恵みと平安がますます豊かに与えれますように”と
 祈りを込めて挨拶をし、手紙を書き始めました。
3節では、“ご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、知ったことにより"と記されています。
 “神と、私たちの主イエスを知ること”の重要性が教えられています。
神様・主イエス様を個人的に、全人格的に知ることは、私たちの人生で一番大切なことです。
イエス様を知るとは、イエス様を信じること、愛することでもあります。
   イエス様を知ることなくして、こころの成長、人格的な成長、霊的成長はできません。
 “ご自身の栄光と栄誉によって……私たちが知ったことにより”と記され、
 4節の初めにも、“その栄光と栄誉を通して、……”と繰り替えし、強調されています。

◆「栄光」とは、全知全能なる神ご自身の、近付きがたいご臨在の輝きと言えます。
・アブラハムが、偶像崇拝の盛んなメソポタミヤにいたときに、「栄光の神が現れた」のです。
・モーセはミデアンの荒野で、燃え盛る「柴の木」の中から「モーセ、モーセ」と声をかけられました。
・迫害者パウロも、天からの光に照らされ「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と
  声をかけられ、偉大な神の働きに召し出されました。
 「栄光」とは、目に見えない神の存在、臨在を示す目に見える輝き、また確かな導きです。

◆「栄誉」とは、普段あまり使わない言葉です。
  私たちの教会のワーシップソングの1番、新聖歌の166番に「威光・尊厳・栄誉」と言う
   タイトルが付いています。
広辞苑に、“栄誉”→ ほまれ、名誉。ほまれに輝く。名誉をたたえる。
◇新共同訳聖書では、“力あるわざ”と翻訳しています。

◆私たちの主イエス様は“ご自身の栄光と栄誉によって”私たちを、罪深いこの世から、
  永遠の滅びから“召し”出して下さったお方です。
イエス様は、
 2節に約束されている“恵みと平安”だけでなく、
 3節では、“いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました”と言う
      恵みの事実が記されています。
『恵み』と言う言葉は、表現しにくいほど、非常に内容の豊かな、祝福に満ちた言葉です。
そのために、使徒ペテロは「恵み」と言う言葉を、ここで言い換えているのではと思います。
  私たちの短い地上の人生で、最も大切なものは、“いのちと敬虔”ではないでしょうか。

◆最近、人のいのちの尊厳が否定されるような悲しい事件が多発していますね。
いじめ、虐待、殺人事件が後をたちません。
命のはかなさと命の尊厳を、私たちはしっかりと受け止めて生きる必要があります。
命は、神の御手の中にあり、神の恵みと憐れみより生かされているからです。

◆敬虔。まことの神を敬い恐れることです。その反対は「不敬虔」「不信仰」です。
   2000年前、使徒パウロは、ローマへ送った手紙の中で、次のように記しています。
 “というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、
  神の怒りが天から啓示されているからです。
  神について知りうることは、彼らに間で明らかです。
  神が彼らに明らかにされたのです。
  神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、
  世界が創造された時から被造物を通して知られ、
  はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はないのです。”(ロマ1:18~20)

◆使徒パウロが、今、この時代に、私たちの日本に来たら、
“不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して”激しく憤る!?

◆使徒パウロは、青年テモテに、励ましの手紙を送っています。その中で
“肉体の鍛練も少しは有益ですが、
  今のいのちと来るべきいのちを約束する敬虔は、すべてに有益です。”(第一4:8)と語ります。
4節b。“……その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、
     神のご性質にあずかる者となるためです。”
“その約束によって”→「約束」と言う言葉は、複数形になっています。
私たちが、主にあって生まれ変わり、造り変えられて、“神のご性質にあずかる者”となり、
   豊かに成長して行くために、神様は数多くの約束を与えていて下さっています。
 “その約束によって”とは、
「神の約束の」数々を、私たちが信仰をもって受け止め、
   約束しておられる生ける神に、日ごとにお従いして行くならば、
   私たちは、神のみ心を知り、“神のご性質にあずかる者”と変えられて行くのです。
“神のご性質にあずかる者となるためです。”
 ◇何と恐れ多い、エリを正されるみ言葉ではないでしょうか。
 ◇何と高い目標でしょうか。
  ◇キリストに似る者とされるとは、非常に素晴らしいことです。
 私たちキリスト者のこの世での、一生涯における課題です。
もし、私たちが油断して、神のみ約束・神のみ言葉に堅く立っていないと、
 “欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ”ることができないのです。

◆40年ほど前、いのちのことば社から、著者は「ある英国の説教者」と匿名で
 霊的に深みのある本が、次々に出版されたことがあります。
「ある英国の説教者」とは、英語で AN UNKNOWN CHRISTIAN となっています。
みずからを「知られざるクリスチャン」と謙遜に名乗る著者は、
 19世紀後半から20世紀の始めに活躍した、英国の名の知れた聖徒であったと伝えられています。
有名な聖会・修養会でたびたび講師を務め、第一次世界大戦後まで、現役で働いていたようです。
その著書に「祈ることを教えてください」 「主よ、みこころを教えてください」
「キリストに似るものとしてください」などが、日本語にも翻訳され多く読まれました。
「キリストに似るものとしてください」と言う本の中で、ゴードン将軍の言葉が紹介されています。
「キリストに似せられた者となるには、私たちの意志を彼に服従させるだけでなく、
そのようにしていただくことを喜ばなければならないことを、私は学んだ。」と。
本の中で、「愛の章」と言われている、コリント第一13章から、
  キリストに似るとは、具体的にどういうことなのか、分かりやすく書き記しています。
“愛は寛容であり、愛は親切です。
 また人をねたみません。
 愛は自慢せず、高慢になりません。
 礼儀に反することをせず、自分利益を求めず、
 苛立たず、人がした悪を心に留めず、
 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
 すべてを耐え、すべてを信じ、
 すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。”
                         コリント第一 13:4~8a
私たちキリスト信者は“神のご性質にあずかる者となる”ように求められています。
このみ言葉の前に立つとき、ある時は悔い改めさせられ、ある時は励まされたりします。
ここでの“神のご性質”とは、神の道徳的なご性質を示しています。いくつか例を挙げますと、
  ◎愛→ 私は隣人を愛している? 神が私を愛して下さったように愛している?
反省・後悔・悔い改めているでしょうか? 少しずつ変えられている? 更に変えられる! 
◎赦し→ 神に赦された者として、人を赦しているでしょうか?
目をあわせることのできない人、心から挨拶のできない人は、いませんか?
◎神は聖なる方→ 考え方、行動において、神の聖さの基準に従っているでしょうか?
神は“我聖なれば、汝らも聖なるべし。”と。
・人類最初の誘惑は、目から飛び込んで来たのです。
しかも、静かな、美しい自然に囲まれたエデンの園で、人間は堕落したのです。
サタンは、エバの目を、禁断の木の実に向けさせ、エバを欺いたのです。
・それ以来、今も、サタンは、私たちを目で誘惑しよう、ヤッキになっているのです。
サタンは、今、特に都会の中で、電波や映像が飛び交う文明のジャングルの中で活躍しています。
サタンは、私たちを神から引き離し、永遠のことを考えさせないように、ねらっています。

◆ヨハネ第一2:15~17(P.479)

◆テレビにしろ、インターネットにしろ、必要なときに必要なものを見るという、
  賢い使い方をしないと、時間の浪費や霊的生活に悪い影響を受けることになります。
“神のご性質”を身に付けることに失敗したガラテヤ地方の兄弟姉妹に、
 使徒パウロは、手紙の中で、(4:19)
 “私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、
私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。”と痛みを感じながら記しました。
 私たちのうちに“キリストが形造られる”とは、一体どういうことなのか、パウロは
  次の5章の22~23節の中で、
 “聖霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。”と記しています。
“神のご性質にあずかる者”とは、私たちのうちに“キリストが形造られる”ことですが、
聖霊の実を結ぶことでもあるのです。
私たちが神の約束によって、“神のご性質にあずかる者”とされる。すなわち
 私たちのうちに“キリストが形造られ”、私たちが“キリストに似た者と”されるなら、
使徒ヨハネが記しているように、
 “神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように
   歩まなければなりません。” (ヨハネ第一2:6)

◆ペテロも、パウロも、ヨハネも、キリスト者のあるべき姿を示しています。
ヘブル書11章は、信仰の偉人たちが紹介されています。その一人「エノク」について、創世記では、
“エノクの全生涯は365年であった。エノクは神とともに歩んだ。
 神が彼を取られたので、彼はいなくなった。”(5:23,24)と記されています。
私たちは、エノクに見習い、今週も神と共に歩み、
 少しづつでも“神のご性質にあずかる者”とされようではありませんか。

◆応答の時◆




























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