12-221「増し加わる恵みと平安」 ペテロ第二1:1~11  (F123) 2024.10.20
                                  
お早うごさいます。


秋がすっかりと深まりました。お互いに体調管理に十分気をつけましょう。
今日も、ご一緒に、全能者であり、救い主イエス・キリストに 
 礼拝を捧げられる恵みを感謝します。

今日から、ペテロの第二の手紙を読み、学び、神のみ言葉の糧を戴きたいと思います。
今朝は、1節と2節から『増し加わる恵みと平安』と題して、
 み言葉を味わい、学ばせていただきたいと願っています。

<祈り>

新約聖書の手紙は、多くの人に、信頼して読まれることを想定して、
 著者たちは手紙の初めに、自分が誰であるか自己紹介をしていますね。
ペテロは、この最後の手紙の中で、自分を
 “イエス・キリストのしもべであり、使徒であるシモン・ペテロ”と紹介しています。
ペテロは第一の手紙の中では、ただ「使徒」という言葉だけ用いているのに対して、
 この第二の手紙では「しもベ」と言う言葉が加えられています。それには理由がありそうです。
第一の手紙の終わりで“みな互いに謙遜を身につけなさい”とか、
“神の力強い御手の下にへりくだりなさい”と勧めた事を自ら実行しているのでは?

◆“しもべ”とは、文字通りでは“ドウロス”「奴隷」を意味します。
 “しもべ”と言う言葉は、パウロの専売特許のような言葉ですが、
  ペテロも、心からへりくだって、自分を「しもべ」と紹介しています。
私たちはパウロやペテロのように『イエス・キリストのしもべ』という自覚を持っているでしょうか?
私たちが誰からも尊敬され、チヤホヤされないと「無視された」と思い、
   すぐ機嫌が悪くなるようであれば、まだ「しもべ」になっていないと言えます。
“しもべ”“奴隷”は、どんな屈辱にも耐えて、ひたすら主人に従う者です。
私たちがイエス様の“しもべ”として忠実にお従いすれば、イエス様が守り、祝福して下さいます!

◆“使徒”→“使命を帯びて遣わされた者”を意味します。
“使徒”とは、厳密な意味では、復活のキリストに直接出会い、遣わされた者で、
パウロが最後の使徒と言えます。
 復活の章と言われるコリント第一の手紙の15章で、使徒パウロは、
  “その後、キリストはヤコブに現われ、それからすべての使徒たちに現れました。
   そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れて下さいました。
   私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、
   使徒と呼ばれるに値しない者です。” (7~9節)

いつの時代でも、自分を権威づけるために“使徒”とか“預言者”と名乗る者がいますので、
  私たちは注意する必要があります!
イエス様が、ヨハネの福音書17章18節の中で“あなたがわたしを世に遣わされたように、
  わたしも彼らを世に遣わしました”と語られたように、
  広い意味では、私たちキリスト者はみな“使徒”“使命を帯びて遣わされた者”と言えます。
 私たちキリスト者は、キリストの復活の証人として、この世に遣わされています。
  闇が深まり、闇が広がるこの世に、私たちは「世の光」としての使命を果たす必要があります。
不正や不道徳がまかり通っている堕落したこの世に、最も必要なのは「地の塩」です。

◆ペテロは“イエス・キリストのしもべであり、使徒である”と胸を張って自己紹介しましたが、
 私やあなたは、どのように自己紹介するでしょうか。

◆ペテロは、自分を“シモン・ペテロ”とも呼んでいます。
シモン→ 親譲りの名前、「神は聞かれた」を意味し、
ペテロ→ イエス様からいただいた新しい名前で「岩」を表す。頼もしい名前でした。

この手紙の受取人たちは、ペテロと立場や働きは違っていても、
“私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。”と呼びかけられています。
なぜ“尊い信仰”と言われているのでしょうか? すぐ前に答えがあります。
“私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって”→
   イエス・キリストの十字架の死と復活のゆえに、罪を悔い改めて信じるだけで、
   罪を赦され、救われると言う確かな約束が与えられていますので、何よりも“尊い”のです。
ペテロは、第一の手紙1:19
 “傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。”と書いています。
かけ替えのない、キリストの尊い血による救いを受けた信仰は、まさに“尊い信仰”です。
ユダは、手紙の20節で、“……最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。
  聖霊によって祈りなさい。”と勧めています。

Q.私たちは“尊い信仰”、“最も聖なる信仰”を持っていますか?

◆昔のこと。
 神学校の入学試験が行われた時、私は「聖書」の試験を担当させてもらった。(国語、英語)
試験の前の月の教授会で、1人が受験と知らされていました。
 ところが、返送された来た答案用紙を見ますと2人でした。
しかも初めて名前を知った方は、あまりにも低い点で、びっくり!面接の時に納得しました。
Kさん。当時57才。日本の一流大学卒。アメリカにも留学。経営学と心理学の2つの博士号。
経営コンサルタントとして身を立てておられる方で、宗教心が篤い方でした。
  禅宗の修行をされたこともあり、受験の少し前まで10年間、神主をされた経歴の持ち主。
阪神大震災のとき神主としてボランティアに参加されたが、神道のボランティアは一人もなかった。
それに対してクリスチャンのボランティアが多くて感動され、
それから求道されて、その年のクリスマスに、バプテスマを受けられた。(MB以外の教会)
Kさんは、いろんな信仰の世界を渡り歩いて来られたのですが、大震災の時に、
  心も大きく揺すぶられて、ついに“尊い信仰”、“最も聖い信仰”を持たれたのです。

2節。第一の手紙の1章2節と比較すると、大切な真理が加えられています。
 “神と、私たちの主イエスを知ることによって、……”という大事な句が追加されています。
 “神と私たちの主イエスを知ることによって、
   恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。”
罪悪が満ち、不安な事が多いこの時代に、私たちには、日々、神の“恵みと平安”が必要です!
  ただ静かに待っているだけでは“恵みと平安”は与えられません。
 “神と、私たちの主イエスを知ることによって、”と積極的な方法が記されています。
主イエスを知れば知るほど、その霊的な知識に比例して
  “恵みと平安がますます豊かに与えれます。”

◆今、あなたが神の恵みと平安が不足しているように思えるなら、
  原因は神様にではなく、あなたにあるといえます!
  神であり主であるイエス様の知り方が不十分だからです!

◆イエス様はどんなお方でしょうか。
 コロサイ2章9節に
  “キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。”
福音書に啓示されているイエス様を知れば知るほど、“恵みと平安がますます豊かに与えれます”。

◆聖書の神様は、私たちにどのように関わって下さるのでしょうか。
エペソ1章3節(P.384)
 “私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。
  神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。"
何と驚くべきみ言葉でしょうか。神の恵みに圧倒されそうです。
私たちは罪のために、滅ぼされても当たり前なんです。ところが愛の神は、
   罪を悔い改めて、イエス様を信じるだけで、私たちの罪を赦し、救って下さったのです。
  それだけではなく、私たちに必要なものをすべて与えようとしておられます。
 “すべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”

◆クリスチャン生活とは、愛の神様が用意していて下さる“霊的祝福”を一つ一つ体験させて戴く、
  スリルに満ちた、ドラマティックな生活です。平安と勇気と希望に満ちた生活が送れるのです。

◆『知る』とは、机の上だけの、頭だけの単なる『知識』ではないのです。
『知る』とは、最も親しい人格的な交わり、最も親密な個人的な交わりを意味します。
イエス様が花婿で、私たち・クリスチャンは花嫁です。
  花嫁は、魅力的で頼もしい花婿イエス様をもっと深くもっと確かに知りたいと願うでしょう。
   そのように、私たちは毎日毎日、イエス様と静かに交わっているでしょうか。
   ことある度に、イエス様に祈り、イエス様のみ言葉に耳を傾けているでしょうか。
『知る』と言う言葉は次の所に出て来ます。
  ペテロ第二 1:3,8,12,14,20, 2:20,3:18 

“神と、私たちの主イエスを知ることによって、
  恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かに与えられますように。”

◆復活の主イエス様は、使徒パウロに、
“わたしの恵みは、あなたに十分である”(コリント第二12:9)と語りかけられました。
同じイエス様が、今朝も私たち一人一人に、“わたしの恵みは、あなたに十分である。”と
話しかけておられます。
 新聖歌172番のおりかえしに、
“……数えよ主の恵み 数えよ主の恵み 数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み”とあります。

◆復活の主イエス様は、恐れたり不安になったりする弟子たちに現れ、
  何度も“平安があなたがたにあるように”と慰め、励まされました。

◆名古屋市の名東区に10年いた頃のことです。
瀬戸市から来ている熱心なクリスチャンホームがあり、その家庭で月一回家庭集会がありました。
私は単車しか乗れませんでしたから、真冬の夜の家庭集会は身にこたえました。
たくさん着込み、マフラ、マスクを身に付けて行くのですが、教会から北東に、
  尾張旭市を縦断し、瀬戸市の北の端、岐阜県境まで、野を越え山を越えと言う感じでした。
1時間もかからない距離ですが、風を切って走るのですから、
   手がかじかんで、感覚がなくなりそうでした。
ベッドタウンから森林地帯に行くのですから、単車で走りながら、気温の変化を肌で感じました。
途中で止まって、バイクの2本のマフラ・排気筒を握って少し暖をとって、また走るのです。
何よりも気を付けたのは、出掛ける前に、ガソリンタンクのチェックです。
  山の中でガソリンが切れたら、全くお手上げですから。

◆今朝、私たちの心のガソリンは満タンですか。
“恵みと平安が、………ますます豊かに与えれ”ているでしょうか。


◆応答の時◆











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