12-219「思い煩いからの解放」ペテロ第一5:6~11  (F121) 2024.9.29

                                  
お早うごさいます。

秋が日に日に深まる気配を感じるころとなりました。

今日も、ご一緒に、全能者であり、救い主イエス・キリストに 
 礼拝を捧げられる恵みを感謝します。

先週は、「必ず再臨されるイエス・キリスト」について、み言葉を学びました。
今日は、「思い煩いからの解放」について学びましょう。

<祈り>
今朝は7節の、み言葉をいただきたいと思います。
“思い煩い”と言う言葉は、聖書の中によく出てきます。
“思い煩い”と言う言葉は、日常生活と深く係わりのある言葉です。
  ある問題を抱え込み、不安になっている、精神的に不健康な状態になっているような言葉です。
“思い煩い”の単語の意味は、
  「不安である状態」「悩んでいる状態」「物事に集中できない状態」を指します。
   ほかの箇所では、“心配”と翻訳される事が多いです。
詳訳聖書では、次のように翻訳されています。
“あなたがたの思い煩いを全部<あなたがたの心配事のすべて、あなたがたの悩みのすべて、
 あなたがたの懸念するすべてを、一度限りきっぱりと>神にゆだねてしまいなさい。
 神はあわれみ深くあなたがたのために心を配って<油断なく注意して>いてくださるからです。"

歴史の中で、最初に思い煩ったのは、一体誰でしょうか。→ アダムとエバです。
 彼らは、神のみ言葉に従わなかったために、「一体、これから先、どうなるのか」と
  不安になり、恐ろしさの余り、神から隠れようとしました。
彼らを捜し求められる神の声に対して、アダムは恐そる恐そる、
 「私は……恐れて、隠れました」と語りました(創世記3:10)。
それ以来、私たち人間には、思い煩い、心配し、悩むことが
 影のように付きまとうことになったと言えるでしょう。
私たち人間は、歴史の最初から今日まで、
 思い煩いながら、心配ごとを抱えながら生きて来たのです。

私たちキリスト者も、思い煩ったり、心配することがあります。
 試練の中で、先を見通せないために、悩んだりすることがあるでしょう。
  自分の仕事や勉強のこと、自分の健康や家族のこと、また自分の老後のことなどに
 不安になったりします。
 私たちは、大なり小なり、多種多様な思い煩い、悩み事、心配事を持っています。

しかし、神様は弱い私たちをありのまま、愛し、理解し、受け入れてくださいます。
 また、誤りなき生ける神のみ言葉・聖書を通して、様々な思い煩いや心配事に対処する方法、
  気持ちを切り替える方法、解決の方法を教えて下さいます。

まず、思い煩いや心配が起こる原因一つについて、考えて見ましょう。
 5節に記されている、不健全な心の状態、即ち、 高慢、高ぶりです。
 アダムの不安、心配の原因となったのは、禁断の木の実を食べれば、ひょっとすると、
  神のように賢くなれるかも知れないと言う、高慢な気持ちになったからです。

歳を重ねた使徒ペテロは、高ぶりによって様々な苦い失敗をしてきました。その体験に基づいて、
 “神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる。”と語ります。

神は、高ぶる者を無視されるのではなく、敵対されるのです。
 神に拒絶され、敵対される。これは大変な事です。私たちは神と戦っては勝ち目がありません。
高ぶりとは、そもそも、神様を後回しにして、自己中心、自分本位になることです。
 高ぶりは、神を退け、神を敵に回すことになります。
 神を敵に回せば、当然ながら不安になり、思い煩いや心配が、次ぎ次ぎと起って来ます。

ペテロは、謙遜であるように、へりくだるようにと何度も繰り返し勧めています。
6節“ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。
   神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。”
   と語りかけています。
◆高ぶり・高慢は、自分の計画や予定、また仕事の中に、神を入れないで、
  自分ならできる、自分がやらなければならないと、自分を過信することです。
 そして、思うようにならないと感じると、思い煩いが始まるのです。
 「どうしょう?」「これから、どうなっていくのだろうか?」と不安に陥ったり、
  時には、最悪のシナリオを考えて、パニックになることもあります。

◆そのような弱い私たちに、
 “神の力強い御手の下にへりくだりなさい。”と語りかけられているのです。
 すべてをご存じで、なんでもお出来になる、全知全能の
 “神の力強い御手の下にへりくだりなさい。”と勧められています。

『へりくだる』とは、どう言う行動が伴うのでしょうか。
“ゆだねなさい。” とは、『投げかける』と言う意味です。

◆思い煩い・心配事を、ボールのように、神様に「丸投げ」しなさいと言うのです。
神様に『投げかける』ということは、持っているモノを神様に向かって「手放す」こと。
そうすれば、神様はそれを、しっかり、がっちり受け止めてくださるのです。
そのように、私たちを恐れさせ、不安に陥れる思い煩い・心配事を“神の力強い御手”の中に
   手放し、手渡すときに、神が“ちょうど良い時に”平安、祝福、解決を与えてくださいます。
 悩みの種を、自分の手で握り締めていないで、神の御手に委ねることが大切です。

この手紙の受取人は、迫害を逃れ、祖国を離れて、外国に寄留している人々でした。
祖国に残して来た人々のことを考えたり、自分たちは、これから先、一体どうなるのかと
 不安になることもあったでしょう。そのような人々に思いを寄せて、
7節。“あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
    神があなたがたのことを心配してくださるからです。”

◇詩篇94:19“私のうちで、思い煩いが増すときに、
      あなたの慰めで私のたましいを喜ばせてください。”

 ◇詩篇139:23,24“神よ、私を探り、私の心を知って下さい。
         私を調べ、私の思い煩いを知って下さい。
         私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
         私をとこしえの道に導いてください。”  

◆イエス様の話された、有名な山上の説教 マタイ6:25~34を読んで見ましょう。
この中に、7回も“心配”と言う言葉が出て来ます。“思い煩い”と同じ言葉です。
ペテロは、そばで身を乗り出して聞いていたことでしょう。
  ペテロは、他の弟子と違って所帯持ちで、家族を養う義務があったし、
  義理の母が熱病で倒れたこともあり、心配の種が沢山あったからです。

◆心配とは、起こるかも知れないし、起こらないかも知れないことを、前もって気にする事です。
ある未知数のことを必要以上に気にし、それに支配される事が、心配するという事です。
◇空の鳥も、生きて行くために、餌が必要です。しかし、
  「今年は異常気象で餌不足だ。どうしよう?」と悩んだりしません。
◇季節毎に咲く美しい野の花も、人目を意識し、外見ばかりを気にして、
  ストレスに陥る花などありませんね。
◇鳥も花も、創造者なる神にゆだねて、任せ切って生きているのです。
神を完全に信頼しているのです。

◆心配は、時間や精神エネルギーの浪費に終わり、有害無益です。非生産的です。
 イエス様は“あなたがたのうちだれが、心配したからといって、
       少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。”と語っておられる通りです。

◆私の姉は、猫好きでした。猫は、繁殖力があり、適応能力もありますので、
 ヨーロッパでは「猫は、9つの命を持っている」と言う言葉があります。
 しかし、猫にも大敵がいます。
 英語の諺に、「心配は猫さえも殺す」→ Care kills even a cat.

私たちは、油断すると心配事が、こそっと追いかけてきます。
  一つの心配がなくなったら、また別の心配が起こって来ます。
ですから、神を無視して、自己中心の生活をすると、思い煩いが接近して来ます。
私たちは、そのような弱さを持ち合わせていますので、イエス様は私たちに、
  30節の後半で、“信仰の薄い人たちよ。”と呼びかけておられます。
そして、衣食住のことで、心配するのはやめなさいと語り、
  “……あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、
   あなたがたの天の父が知っておられます。
   まず神の国とその義を求めなさい。そうすれば、
   これらのものはすべて、それに加えて与えられます。”
イエス様は念を押すように、「ですから」と言う言葉を繰り返して、大切な真理を教えておられます。
  “ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。
   労苦はその日その日に十分あります。”

私たちは、空の鳥や野の花のように、創造者なる神、全知全能の神に信頼して、
その日その日を、一日一日を感謝して、力いっぱい、生きれば良いのです。
労苦は毎日十分にあるので、明日のことまで先取りして、心配する余裕はないはずです。
明日の事は、明日を知り、明日を支配される神様に、お任せすれば良いのです。
   私たちの明日のことも、将来のことも、神様が心に掛けていてくださるので、
    お委ねすれば良いのです。

◆そういう私は、心配性の所があり、何か気になることが起これば、
   夜床についても中々眠れない時があります。2つの事をします。
①気になることを、そばにあるメモ用紙に書き込み、これは明日心配しよう。
  ②イエス様のみ言葉を何度も口に出し、
    “ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。
     労苦はその日その日に十分あります。”と自分に言い聞かせるようにしています。
   意識的に深呼吸を繰り返していると、そのうちに平安に包まれ、眠りにつく事ができます。

◆使徒パウロが、ローマで捕らわれの身にありながらも、ピリピの教会に手紙を送りました。
 イエス様が、山上の説教で用いられた「心配」と言う言葉を用いました。
 “何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって捧げる祈りと願いによって、
  あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、
  すべての理解を越えた神の平安が、あなたがたの心と思いを
  キリスト・イエスにあって守ってくれます。”(ピリピ4:6~7)(P.399)

◆ペテロも、イエス様が用いられた「心配」と言う言葉を用いています。
 7節“あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
    神があなたがたのことを心配してくださるからです。”

◆このみ言葉は、私にとって決して忘れる事ができない、思い出のあるものです。
母が2005年1月に主のみもとに召されましたが、その5,6年前のこと。
  認知症が進んで会話ができなくなる前、母にこのみ言葉を読んであげましたら、
 目を輝かせて「ええ言葉やなぁ! 気持ちが楽になる。」と言いました。
  これが母の口から聞いた最後の言葉となりました。

◆応答の時◆ 詩篇55:22“あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。”









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