11-216「真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい」ペテロ第一4:12~19 (F118)
2024.9.15
お早うございます。
今年の夏も とても暑かったですね。「熱中症警戒アラート」も何度も発令されました。
私たちが住む「堺市」が一番暑かったことがあり、TVに「堺市」と表示されたこともありました。
“災害級の”の暑さと表現されることもありました。
9月の半ばを迎えていますが、まだまだ夏の続きのような残暑が続きます。
普段は森中で静に住んでいる熊や猿も、
住みづらくなって人の住む都心に食べ物を求めて出て来るようになっています。
今の時代、どんなに住むづらくなっても、私たちには生き抜く秘訣が与えられています。
今朝のメッセージタイトルにしました、ペテロ第一4:19のみ言葉がその秘訣です。
「真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい」
<祈り>
このペテロの手紙は、今のトルコに迫害を逃れて避難していた兄弟姉妹を励ますために書き送られた。
トルコは昔から、地理的に避難民が集まりやすかったのです。
まず、16~17節を読んでみましょう。
試練を、神のさばきと考える人がいます。それは間違っています。
試練が、どんなに悲しくて、辛くても、神のさばきではありません。
ここには、試練を正しく理解し、歓迎する理由が述べられていますね。
全知全能の神が、私たちが経験するすべてにおいて、最後的に公平に審判を下されるのです。
善には必ず報い、悪には必ず裁かれます。神様は、最終的に白黒の決着をつけられます。
・神の試練は、一時的な手段で私たちに警告を与えたり、
私たちを軌道修正させるため与えられます。
・神のさばきは、決定的で、永遠に続くものです。
羊は右に、やぎは左に、間違いなく分けられる時が来ます。
“さばきが神の家から始まる時がきている”→ 私たちは、厳粛に受け止める必要があります。
◆誤解をさけるために、説明して置きたいと思います。
私たちキリストを信じる者は、キリストの十字架の身代わりの死によって、罪を赦されました。
ですから、罪のさばきを受けることはありません。
イエス様は、ヨハネ5:24に
“まことに、まことに、あなたがたに言います。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、
さばきに会うことがなく、死から命に移っています。”とはっきりと保証されています!
ペテロ第一4:10→ 私たちは“………神の様々な恵みの良い管理者として、
その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。”と勧められています。
光栄ある特権に預かっています。→ それだけに重い責任も伴っています。
恵みの良い管理者として、最終的に神様に報告する義務があります。→
管理すべきものを正しく管理しないと、当然、責任が問われます。
救われてから、天の御国に行くまでの間、神から戴いている賜物をどのように活用したのか。
時間やお金をどのように用いて、主に仕えて来たのか問われることになります。
◆コリント第二 5:7~10
“私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。……
私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。
私たちはみな、善であれ悪であれ、肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、
キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。”
18節。“正しい者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。”→
厳しいみ言葉ですね。私たちキリスト者は、自分のエリを正すべきみ言葉です!
使徒パウロが、コリントの教会に送った手紙の中で、
“火の中をくぐるようにして助かる”と記した言葉と相通じるものがあります。
“だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。
その土台とはイエス・キリストです。だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、
木、草、藁で家を建てるると、それぞれの働きは明らかになります。
「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、
この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。
だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。”
だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、
その人自身は、火の中をくぐるようにして助かります。”
コリント第一 3:11~15(P.329)
・試練は一時的で、個人差がありますが、神の許し・神のご計画の中で送られて来るものです。
・さばきは、公平で、決定的で、いつまでもその結果が続きます。
永遠の祝福か? 永遠の裁きか?
永遠のいのちか? 永遠の滅びか?
ヨハネ3:16
“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”
◆神の愛は、聖書の大切な教えです。誰でも、喜び、受け入れやすい真理です。
誰でも、愛したり、愛されたりして、生きているからです。
それに対して、神が義なるお方です。聖書の神は完全に正しい・義なるお方でもあるのです。
義なる神は、私たちの罪をあいまいに、うやむやに、中途半端に扱われません。
罪に対しては、正しく厳しく扱われます。
イエス・キリストの十字架によって、神の愛と神の義が満たされることになったのです。
「神の愛」+「神の義」=『十字架』です。
神は、私たちを愛するがゆえに、イエス・キリストをこの世に遣わし、
私たちの罪を赦し、私たちを義とするために、私たちの罪の身代わりとして、
イエス・キリストを十字架におつけになったのです。
神学の一部に「神義論」というのがあります。「聖霊論」とか「天使論」などと同じように。
「神義論」というのは、文字通り「神は義なるお方である」ことを聖書全体の中から学びます。
◆「神の愛」と「神の義」は、バランスを保つ必要があります。
神は愛であると同時に、神は義なるお方であると信じ受け止めることが大切です。
「神の愛」をだけを強調すれば、自分本位となり、この世と妥協しやすくなります。
博愛主義になり、なんでも受け入れてしまうのです。
「神の義」をだけを強調すれば、形式的になり、人をさばきやすい律法主義的な考え方を
身につけることになります。
◆私たちが身につけている衣服の「布」は、
縦糸と横糸が組み合わせられて、バランスを保ち、布として役目を果たしているのです。
ですから、十字架は「神の愛」という縦糸と「神の義」という横糸によって成り立っていると
言うことができます。
◆神は愛であり、義なるお方です。赦しと命の約束された道を用意してくださいました。
◆マタイ7:13~14
“狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、
そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門はなんと小さく、その道もなんと狭いことでしょう。
そして見出す者はわずかです。”
マタイ7:21~23
“わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、
天におられるわたし父のみこころを行う者が入るのです。”
“その日には、多くの者がわたしに言うでしょう。
「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、
あなたの名によって悪霊を追い出し、
あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」
“しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。
「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、
わたしから離れて行け。』 (マタイ7:21~23)
19節に、私たちのなすべきことが記されています。
“………真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。”
『ゆだねなさい』とは、信頼できる友だちに大事なものを預けるという場合に使われる言葉。
「ゆだねなさい」とは、全幅の信頼をよせて大事なものを任せる。ゆだねることです。
◇主イエス様が十字架の上から“父よ。わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。”(同じ言葉)
ルカ23:46
ペテロ第一5:7“あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださるからです。”
“ゆだねなさい。”→「任せる」とは、よく似た言葉ですが、別の言葉が使われています。
→信頼の度合いが深い言葉です。『投げかける』と言う意味があります。
◆子供がまだ小さい頃、二段ベッドの上の子供に「さあ飛び降りてみろ!」と手を差し出すと、
子供は、本気になって自分をボールのように、投げかけて来たことを懐かしく思い出します。
親を、全面的に信頼していたからですね。
◆心配事を、ボールのように、神様に「投げかけ」なさい。
神様は、しっかり、がっちり受け止めてくださるのです。
神様に『投げかける』ということは、神様に向かって「手放す」ことを意味します。
◆応答の時◆
まことの愛を持ち、完全に義なる神に、応答しましょう。
罪に気づけば、悔い改めて赦しをいただき、愛に欠けていれば満たしを願いましょう。
愛においても、義においても、“真実な創造者に自分のたましいゆだねなさい。”