11-215「なぜ試練があるのか」 ペテロ第一4:12~19  (F117)  2024.9.1

お早うございます。

夏の特別プログラムのために、しばらくの間、ペテロ第一の手紙から学びを中断していました。
今朝は、ペテロ第一の手紙に戻り、4章12節以下の箇所から、
 「なぜ試練があるのか」「私たちの人生になぜ試練があるのか」について学びます。
聖書の中には、私たちの人生に影のようにつきまとう「試練」と、
 どう向き合えば良いのか記されています。

◆試練→「試す」と「練る」と2つの漢字で作られています。
    ですから、試練には、苦痛・苦難が伴います。
    英国の諺に『苦難は人を造り、安楽は悪魔を造る』とあります。
今朝、私たちを整え、私たちを鍛え、私たちを磨き上げる試練について学びましょう。

<祈り>

ペテロ第一4:12~13
“愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、
 何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。
 むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。
 キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。”
“愛する者たち”と呼びかけの言葉は、2章11節とここの2箇所にあります。
ペテロは厳しい状況の下にいる兄姉を慰め励ますために、愛情を込めて語りかけています。

この箇所に“試みる”“試練”という言葉が出てきます。
この言葉と、結び付かないと思うような言葉が出てきます。
 “いっそう喜びなさい。”“歓喜にあふれて喜ぶためです。”
この箇所を理解するために、この手紙の受取人たちの置かれた状況を知る必要があります。
1:1→ キリストを信じる信仰のために迫害され、
     祖国から外国に逃れ、片身の狭い寄留者たちへ送られました。
信仰ゆえに起こる、霊的、精神的、肉体的、社会的な『試練』を意味しています。
 この手紙の受取人たちにとっては、キリストを信じるがゆえに受ける苦しみ、
  迫害による試練でした。神のみこころに従って受ける苦難でした。
“燃えさかる試練”とは、単なる試練でなく、次々と飛び火して、
  手がつけられないように激しさを増していた試練なのでしょう。

◆私たちが、日常生活において、さまざまな困難・苦難、試練・迫害を受けますと、
  とかく消極的、悲観的になりやすい弱さ持っているものです。
「なぜ自分が、このタイミングで、こんな試練を受けなければならなのか」と頭を抱えます。
「試練」と「喜び」とは、相入れない状態、状況のように思います。
「試練」と「喜び」と言う言葉は、「水と油」のように、決して結びつかないように感じます。

しかし、全知全能の神は、試練に打ちのめされやすい私たちに、
 “不審に思う”といった後ろ向きの暗い感情、マイナスイメージを持ちやすい感情を、
   信仰によって打ち消し、乗り越えて、
   試練の最中にあっても、「喜び、また神をあがめる」ようにと勧めておられます(13,16節)。
この「喜ぶ」「神をあがめる」と言う積極的な動詞を、さらに強調するために、
 『むしろ』、『かえって』という副詞にも注意を払う必要があります!
神は私たちに、試練に対して前向きに、積極的に受け止めるように求めておられます。

私たちは苦難・試練がやって来ると、
 「門前払」即ち「拒絶」しようとするものです。怖くて逃げようとします。
それは、肉なる人間の本能的な反応、自己防衛反応と言えます。
 しかし、生ける神への信仰が強くなると、試練に対する受け止め方が変わって来ます。
神様の許しなくして、何事も起こらないと知り、また、
 主イエス様の十字架の苦難をさらに深く知る者とされていくからです。

◇詩篇のある作者は、
 “苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。
  それにより、私はあなたのおきてを学びました。”(詩篇119:71)

◇イエス・キリストについて、ヘブル書の著者は、
 “キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、
完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、……"
   ヘブル書5:8~9
なぜ神様は、私たちに『試練』を送られるのでしょうか→ 試練の目的は何でしょうか? 
12節“あなたがたを試みるために”→ 私たちの信仰をテストするために です。
 ◇信仰の父アブラハムも、試練を受けました。
 ◇偉大なリーダーのモーセも、試練を受けました。
 ◇信仰の篤い・敬虔なヨブも、試練を受けました。
 ◇勇敢で、王の地位に昇り詰めたダビデも、試練を受けました。
 ◇迫害者から伝道者に変えられたパウロも、試練を受けました。

試練のない人生って考えられないですね。誰でも大なり小なりの試練を受けるものです。
試練に対して、免疫になっている人は誰もいません。
試練の中で、神を見上げて、静かに耐え忍ぶときに、
 不純なものが取り去られ、信仰が高められ、強めれます。
試練とは、試みて練ると書きます。
13節に“キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。”と記されています。

◆ピリピ1章29節に、このように記されています。
 “あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、
  キリストのために苦しむことでもあるのです。”ペテロ第一4:14節→“もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。”
       16節→“しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、………”

◆全知全能の神は、私たちに試練を送り、
  私たちの魂にまとわりつく自我、欲望、高慢などの不純なものを取り除こうとされます。
私たちの魂の輝きを失わせるものを焼き滅ぼそうとされます。
ですから、神様は試練を前向きに受け止めるようにと、願っておられます。
  私たちも、そのように心掛けたいものです。
13節→“……いっそう喜びなさい。……歓喜にあふれて喜ぶためです。”

◆イエス様→ マタイ5:10~12a
 “義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
  わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで
  悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
  喜びなさい。大いに喜なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。………”
・イエス様の弟→ ヤコブ1:2~4,12節。
 “私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。
  あなたがたは知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。
  その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、
  成熟した、完全な者となります。”(ヤコブ1:2~4) “試練に耐える人は幸いです。耐え抜い人は、
  神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。”(ヤコブ1:12)

苦難・試練の中には、自分が蒔いたものを刈り取るという苦しみがあります。
身から出たサビ。自業自得と言われるものです。
  自分の愚かさ、自分の失敗から起こる苦しみは、極力避けるべきです→ 15節。
16節“しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。
     かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。” 
    恥は我がもの、栄光はキリストのもの!という生き方が大切です。

◆使徒の働き5:41
 “使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、
  最高法院から出て行った。そして毎日、宮や家々でイエスがキリストであると教え、
  宣べ伝えることをやめなかった。”

◆最初に赴任した平野教会時代、家は農家で底抜けに明るい女子青年のSさんがいました。
  ある日曜の、礼拝の証しの時に立ち上がって、
  「私は今、神様に『試練を与えてください』と祈っている」と証しされました。

◆有名なオーストリアの精神科の医者、フランクルは、最悪の状況を体験させられました。
「強制収容所に入れられたのは不幸であったが、なおも私は幸せだった」 と語りました。

◆ヘンリー・ナウエンは、著書の中で
  「人生の痛みや苦しみは、私たちの意志の力を試し、確信を強める手段であると
   受け止めて生きている間は、耐えることができる。」
       ヘンリー・ナウエン『燃える心で』P.18

◆最後に、今開いている、ペテロ第一の手紙の4章12,13節をご一緒に、お読みしましょう。

◆応答の時◆









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