13-327「アブラハムの終活:幸せな晩年を過ごすために」(F117回)
創世記12:1~4,25:7~8
2024.08.18
お早うございます。
人々が移動する、夏休み・盆の時期に、南海トラフ地震や台風7号が関東に接近したりして、
予定を変更された方々がおられます。
紛争の絶えない「ガザ」では、4万人が命を落としたと言う悲しいニュースが届いています。
今朝も週の初めの日に、大人も子どもも一緒に礼拝できる恵みを感謝します。
◆今朝は、「アブラハムの終活:幸せな晩年を過ごすために」
というメッセージタイトルで、み言葉を学びましょう。
<祈り>
◆アブラハムは、神のみ声に聞き従い、偶像崇拝の盛んなメソポタミアのウルの町を出て、
75歳の時に約束の地・カナンに足を踏み入れました。
アブラハムは、恵みの山あり・試練の涙の谷ありの、実に波乱に富んだ信仰の歩みを送り、
100年の信仰の歩みをし、175歳で地上の生涯を閉じました。
◆アブラハムの生涯を学びますと、人間的な弱さと問題、また限界を感じます。
しかし、創造者なる神を見上げて前進すれば、道が開かれ、心が満たされ、
希望をもって歩むことができることを教えられます。
◆信仰の父アブラハムの信仰の旅路に、何度も何度も試練がありました。
その度に、試練を乗り越え、人間的にも霊的にも成長して行きました。
今朝は、アブラハムの晩年の姿を眺めたいと思います。
24:1“アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。
主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。”
“あらゆる面で”→ 健康においても、家庭生活でも、仕事の上でも神の祝福を受けていました。
経済的な面でも、信仰の点においても、神の祝福を受けていました。
この24章では、アブラハムは息子イサクの妻となる女性を探しに、
経験豊かで、忠実で、しかも敬虔な、しもべを自分の出身地に遣わします(2~4節)。
アブラハムは、同じ言語を話し、同じ文化の中で育ち、同じ価値観、同じ信仰を持つ女性を
イサクの嫁に迎えたいと願いました。
この嫁選びは、イサクの幸せを願い、また自分の老後も新たな問題に翻弄されないために
先手を打ったものと思われます。
35節“主は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。………”
25:5~6“アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかし、側女たちの子には
贈り物を与え……自分の子イサクから遠ざけた。”
相続問題、金銭問題で、イザコザが起こらないように配慮しています。
アブラハムは、賢い人です。起こり得る問題を予測して、問題に巻込れないために先手を打ちました。
25:8“アブラハムは幸せな晩年過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。
そして自分の民に加えられた。”
“幸せな晩年過ごし”→古い訳では“平安な老年を迎え”となっています。
“幸せ”とは、神様から“平安”をいただき続けることですね。
“幸せ”の条件が全部そろっていても、
肝心の“平安”がないと、真に“幸せ”「幸福」とは言えないですね。
“幸せな晩年過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。”
→これは、ただ主の憐れみ、主の恵みのほかありません。
これは、誰もが願うことではないでしょうか。これこそ「幸せな」終活と言えます。
“満ち足り、息絶えて死んだ。”とは、
「神がその人のために約束されたことを十分に成し遂げられた」と言う意味です。
素晴らしいこと、喜ばしいこと、めでたいことだと言う余韻のある言葉です。
◆「神の約束は、決して中途半端で終わりません。」
「神の約束は、必ず実現されます。」というメッセージが含まれている大切な言葉です。
◆ヘブル10:35,36(P.451)
“ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。
あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。”
◆私たちは、神の摂理によって、この世に産まれて来た時は、前以て、
どの時代に、どこの家庭に産まれ、どんな人生を送りたいですと願うことはできませんでした。
しかし、私たちの人生の終わりは、このようであって欲しいと祈り願うことはできます。
むしろ、自分の人生の終わりについて、
アブラハムのように、積極的に十分に考えて、祈りつつ、心の備えをする必要があります。
◆三浦綾子さんが亡くなる4,5年前、声も低くなり口述も困難になって来たころ、
「私には、まだ死ぬという仕事がある」と話されたことは、有名なエピソードになっています。
ソロモンは、
“天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。”と語りました(伝道者3:1,2)。
私たちの命は「神の御手の中にあります」。
だからこそ、「死ぬという仕事」「死ぬという最後の仕事」を、
悔いの残らないように、よく準備できるように、祈り続ける必要があると思います。
預言者アモスは“あなたの神に会う備えをしなさい”と勧めました(4:12)。
◆神に会う備えをした一人の人を紹介します。
イエス様の両親が、生後8日目のイエス様を神に捧げるためにエルサレムの神殿に上られた時に、
シメオンという信仰の篤い老人がいました。ルカは、その人を福音書の中に紹介しています。
“……この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、
聖霊が彼の上におられた。そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、
聖霊によって告げられていた。”(ルカ2:25,26)
◆この箇所から「私たちは、使命がある間は死なない」「使命を果たすまで守っていただける」と
言うことができます。
ですから、お互いの使命を確認し、使命を十分に果たし、
最後の仕事を立派に果たせるように、心して祈ることが大切ですね。
25:8節。“アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。
そして自分の民に加えられた。” なんと言う、素晴らしい「終活」でしょうか。
この言葉の背後には、アブラハムの長年の信仰と祈り、忍耐と希望、謙遜と知恵が隠されています。
アブラハムは、「死ぬという最後の仕事」をも、立派に成し遂げました。
“アブラハムは幸せな晩年を過ごし……”
アブラハムは不安や心配を信仰の手で払いのけ、
ストレスを溜め込まないように努力や工夫を怠らなかったことでしょう。
アブラハムは、幸せを実感し、幸せを満喫しながら、死ぬ準備をしました。
“……年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。………”何と素晴らしい「終活」でしょう!
古い訳では、“長寿を全うして”と訳されています。
→ アブラハムは食生活に気をつけたでしょう。健康管理にも注意したことでしょう。
人間関係にも工夫したことでしょう。
“……自分の民に加えられた。”
墓に入ると言うことではない。ある聖書学者の言うように、
死後もなお存在し続けている先祖の仲間入りしたのです。
存在する場所や形態は変わっても、存在し続けている先祖の仲間入りを果たしたのです。
復活信仰の表れと思います。
アブラハムは死によって、「天に一人が増えました」と言えます。
◆“老人は夢を見る”(使徒2:17)
キリストにある老人は、実現不可能な、はかない夢を見るのではありません。
確かな希望、永遠の輝かしい天の御国の夢を見るのです。
死は、一時的な通過点であり、そのすぐ先にある天国の夢を見るのです。
なんと感謝なことでしょうか。
◆モーセは120歳で地上の生涯を閉じました。
病気で、老衰で亡くなったのではありません。
まだまだ気力、体力は衰えてはいませんでしたが、
神様は、「お前の働き・お前の使命は終わった」として、天に召されました。
その「モーセの祈り」とされる詩篇90篇には、
永遠の創造者なる神とはかない人間の一生が描かれています。
“私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。
そのほとんどは、労苦とわざわいです。
瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。………
どうか教えてください。自分の日を数えることを。
そうして私たちに、知恵の心を得させてください。” 詩篇90篇10,12節
◆私たちも、このモーセの祈りのように、 “どうか教えてください。自分の日を数えることを。
そうして私たちに、知恵の心を得させてください。” と
イエス・キリストの十字架による救いの恵みを感謝しつつ、
謙虚に祈り、最後の備えをしようではありませんか。
◆使徒パウロは、青年テモテに「平安で落ち着いた生活を送る」秘訣を書き送りました。
“……すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人たちのために、
願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。
それは、私たちが敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。
そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、
喜ばれることです。
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。”
テモテ第一2:1~4
◆今週も、私たち一人一人が、良き羊飼いである主イエス様の御声に聞きしたがって、
感謝しつつ、平安に過ごさせていただきましょう。
【応答の時】
“確かに、神は私たちは一人ひとりから遠く離れてはおられません。
「私たちは神の中に生き、動き、存在している」のです。” 使徒の働き17:27,28