11-209「自分自身を武装する」 ペテロ第一4:1~6 (F115)  2024.08.04

お早うごさいます。
「地球沸騰化時代」と言われるように、猛暑・酷暑が続いていますね。
体温を越える40℃を記録した所もありました。

◇私のマンションは、西向きで、西日が直球で入って来ます。
ペアーガラスの内窓を取り付けていますので、ガラス3枚で熱を遮っていますが、
   それでも不十分です。ベランダに遮光カーテンをぶら下げ、
   エアコンの室外機の上には、スダレで日蔭を作ったりして工夫しています。
暑い中、私たちは平和の神・救い主イエス・キリストに進み出て、
 礼拝を捧げることができる恵みを感謝します。

<祈り>

今朝から、ペテロの第一の手紙4章の学びに入ります。
 この章において、再び「苦しみ・苦難」という言葉に出会います。
この第一の手紙の1章から5章の各章に「試練」、「苦難」という言葉が、必ず出て来ます。
ペテロは、この手紙全体を通して、
 「困難・苦難の中にも、揺るがない希望が与えられている」、
 「試練・迫害に直面しても、必ず勝利する事ができる」と言うメッセージを送り、
 厳しい状況の中にいるクリスチャンたちを励まそうとしています。
ですから、このペテロの第一の手紙は『苦難の福音書』という事ができます。
今朝は、『自分自身を武装する』ことの重要さについて考えたいと思います。
ペテロは、今のトルコの西側に試練を逃れて離散し、寄留している兄弟姉妹たちに、
この手紙を書き送っています。
1節。手紙の受取人たちに、イエス様の十字架による苦しみに、目を向けさせようとしています。
私たちの救い主イエス様が、なぜ・どのように“肉において苦しみを受けられた”のか、
正しく、しっかりと受け止めておくことが重要です。
少し戻って、3章18節を読んでみましょう。
  イエス・キリストの十字架の死と復活は、歴史的な事実であるだけでなく、
  私たちの信仰の土台・信仰の基盤でもあると分かりますね。
イエス様が受けられた苦難は、
  いつも最善をつくしておられたにもかかわらず、受けられた苦しみでした。
 身に覚えのない不当な苦しみ、私たちの罪の身代わりとしての
  耐え難い苦しみ・究極の苦しみを受けてくださいました。
主イエス様が、弟子たちを伝道に派遣するときに、弟子たちの受ける苦しみを予測して、
次のように言われました。
“いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。……”
“からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。"(マタイ10:16,28)
神を信じない人たちが、私たちを最大限に苦しめても、一時的に「体を殺す」ことだけです。
  それ以上の永遠と関わりのある「魂を殺す」ことはできないのです。
  なぜなら「魂」は、神様の領域、神様のご支配の中にあるからです。
 罪人が怒り狂いイエス様を攻撃したのは、肉体だけでした。
  イエス様を殺すだけで精一杯で、それだけで満足したのです。

◆使徒の働きの7章に、ステパノの殉教の記事があります。
 福音を語ったゆえに、議会に引き出され、ついに石打の刑を受けました。
 “そして、ひざまづいて大声で叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないで下さい。」
こう言って、彼は眠りについた。” 使徒の働き7:60

◆私たちは、この世にあって、さまざまな苦しみに会います。主イエス様は、
 “……世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。
  わたしはすでに世に勝ちました。”(ヨハネ16:33)と、弟子たちを激励されました。
 苦難の時に、その苦しみだけを見つめ、自分一人だけで、
  苦しみに耐えているならば、その苦しみは耐え難く大きく感じます。
 しかし、私たちには幸いなことに、イエス様の受けられた苦しみを思い起こすことができます。
苦しみの中から主イエス様を見上げるときに、不思議なことに、慰めと平安が与えられます。
ペテロは、“あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。”と勧めています。
“同じ心構えで”とは、イエス様と“同じ心構えで”と言う意味です。
私たちの苦しみとイエス様が受けられた苦しみを比較しますと、
全く比べ物になりません。足元に及びません。雲泥の差があります。
しかし、苦しみを比較することで、私たちの苦しみの感じ方、受け止め方が変わって来ます。
  そして苦難の中で、神の慰め、神の励ましを受けることになるのです。

◆ヘブル書の著者は、12章3節に、
“あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。
  あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。”と記しました。
“……考えなさい”→ 詳訳聖書では
            “比べて考え合わせ、よく考えてごらんなさい。”と訳されています。
苦難・試練に耐え、打ち勝って行く最善の方法は、
“信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない”ことです。
イエスを見つめながら、イエスを見上げながら、イエスにお従いすることが大切です。
ペテロは、“あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。”と勧めていますが、
 主イエス様は、どのような心構えで、
  私たちのためにさまざまな苦しみに耐えてくださったのでしょうか?
イエス様の力の秘訣は、どこにあったのでしょうか? 2つあります。
①み言葉

 ◆イエス様は、バプテスマを受けられた直後、荒野で悪魔の恐ろしい試みを受けられました。
 3回の悪魔の激しい攻撃に対して、“聖書に………と書いてある”と、
    御霊の与える剣である、神のみ言葉によって、見事にサタンに打ち勝たれました。
  その時、イエス様は旧約聖書の申命記から、み言葉を引用して、3回とも反撃されました。
②祈り

 ◆主イエス様は、十字架につく前の晩、弟子たちと「最後の晩餐」の時を持たれました。
 その席上で、重要なお話をされました(ヨハネ14~16章)。
 その後、神を信頼し心を静めて祈られました。
    ヨハネ17章の祈りは「大祭司の祈り」とか「まことの主の祈り」といわれます。
  賛美を歌ってから、ゲッセマネの園へ向かわれました。十字架の直前に祈りをするためでした。

◆十字架上で語られた7つの言葉の、最初と最後は『祈り』そのものでした。
イエス様の「心の武装」は、み言葉と祈りによってなされました。
使徒パウロも、エペソのクリスチャンに、神様がご用意して下さった全ての武具を用いて、
 武装するようにと勧めています。
 エペソ6章に“御霊の剣である神のことば”と“祈り”があります。
1節。“肉において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断っているのです。”
「苦しまなければ、人の罪は赦されないとか、罪は清められない」という意味ではありません。
   聖書は難行苦行による救いとか禁欲主義を勧めてはいません。
神の許しの中で起こる苦難を、信仰をもって謙虚に受け止める時に、
その苦難・その試練は、私たちを神に近づけさせてくれます。
   私たちは苦難によって、汚れた、滅び行く世俗的な生き方を止めるようになるはずです。
   苦難により、私たちは神が嫌われる罪を遠ざけ、罪との関係を断つようにさせられます。
 弱い私たち人間は、苦しみの少ない楽な生活が続けば、
   自己中心になったり、高慢になったり、怠けたりして、堕落する者です。
 しかし、神の許しの中で受ける苦しみによって、
   私たちは、謙そんを学び、神に近づき、救いを全うすることになるのです。
2節 神様は私たちが『苦難』を受けることを許されます。
  その苦難を受ける積極的な目的が記されています。
  “……人間の欲望にではなく、神のみ心に生きるようになるためです。”
  私たちを永遠の滅びに追いやる“欲望にではなく、神のみ心に生きるようになるため”即ち、
   神に喜ばれ、神の栄光を表す生活をするように、神は願っておられるのです。
聖書には“食べるにも飲むにも何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。”とあります。

◆もし、私たちが神の許しの中で与えられる『苦難』から、何も学ばないなら、
 大変な損失を招くことになります。

◆詩篇の作者は、“苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。
          私はそれであなたのおきてを学びました。”(119:71)

◆苦難や試練は、私たちの人格を高め、霊性を深め、永遠の生ける希望を確信させてくれます。
3節には、私たちが神に背中を向けていた、ノンクリスチャン時代の罪が並べられています。
性に関する罪、飲食・快楽に関する罪、偶像に関する罪です。
私たちは、過去に、罪のもたらす危険に気づかないで、罪の生活に夢中になっていたでしょうが、
   もうそれで十分です!と言われています。

◆学生や若い人たちから、文句が出てきそうな箇所です。
私なんか、僕なんか、まだ世の中のことは知らない、
  若い時に、少々ヤバイことでも体験したほうが良いではないかと反論されるかも知れません。

◆私は言いたいのです。
  わざわざ、火の中に飛び込んで、ヤケドをする必要はないのです。
 わざわざ、泥沼に足を踏み入れて、危なくて無駄な経験をする必要はないのです。

◆サタンが、私たちを惑わす時によく用いる言葉が4つあります。
  隠された武器のように、短い言葉ですが恐ろしいものです。
①「若いから」:若いときの悪習慣がその人の一生を駄目にすることが多い。 酒、タバコなど。
②「小さい事だから」:神から離れると、罪を過小評価します。良心がマヒして、大きな罪を犯します。
③「一回だけだから」:一回ぐらいは良いだろうと思ったことが、止められずに悪事を続けることに。
④「誰でもしてるから」:神を恐れないために、誰でもしていると罪を身勝手に考えてしまいます。

◆“あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。”(伝道者の書12:1)
 若い時に、人生の土台を築くべきです。
 若い時にこそ、大切なものをしっかり身につけるべきです。
  若い人々は、記憶力に恵まれています。一生懸命に勉強して様々な知識を身につけ、また、
   専門的な訓練を受けて技術や資格を身につけ、賜物を生かすことも大切です。また、
旅行したり、趣味を楽しんだりして、幅広い良い経験を積み重ねることも大切でしょう。
 神様から戴いた賜物、才能、能力を磨き育てることによって、実り多い人生を送ることができます。

◆私はこの歳になって、確信をもって話すことができのは、
  「若い頃の良い経験は、老後の宝である」と。
私たちキリスト者は、キリストにあって新しい生活をするために、周りの人々から、
 付き合いが悪いとか、ええ格好をしているなどと、悪口を言われることがあります。
私たちが、神のみ心にかなった生活をしていて、
 神を知らない人たちから「悪口」を言われても、彼らに惑わされて、世に舞い戻ってはならない!

5節に、自分の犯した罪の報いが述べられています。
 “生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、
   申し開きをすることになります。”即ち、
 神のみ前で、弁明・釈明しなければなりません。神のさばきの座に立たなければなりません。

◇ローマ6:23“……罪の支払う報酬は死です”

◇ヘブル9:27“人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている”
“生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方”→ 注意すべきみ言葉ですね。
使徒パウロも、次のように述べています。
 “神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、
  その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。”(テモテ第二 4:1)
死とは、無の世界に行くことではありません。
 死ねば、意識することも存在することもなくなる。
人は死ねば、すべてがご破算になると思っている人がたくさんいます。
しかし、そうではないのです。死後にも罪のツケが回って来るのです!
  「蒔いたものは刈り取ることになる」と聖書に書いてあります!
イエス・キリストの十字架による赦し以外に、私たちの罪の清算も、罪の時効もないのです。
私たち人間はみな、死後、意識のある世界に行きます。
  天国も地獄も、はっきりした意識のある世界です!
私たちは、神の御前で“申し開きをすることになります。”

◆伝道者の書12:13,14
 “結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。
  これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、
  あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。”
6節。

◆応答の時◆


















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