11-202「主に従うということ」 ペテロ第一2:18~25 (F111) 2024.06.30
お早うごさいます。
私たちキリスト者は、確かな希望の国・天国への「信仰の旅人」です。
私たち旅人は、この地上の歩みの中で、内側から外側から、いろんな困難や試練を受けるものです。
◆家内は天の御国へ旅立って、早いもので一年になります。
公園に散歩にでかけると、どこからか出て来そうな不思議な気持ちになります。
◆世界の多くのキリスト教会で読まれている本があります。
①ジョン・バニヤンの名作に「天路歴程」というのがあります。
目次→「失望の沼」「困難の丘」「死のかげ」「疑いの城」「黒い川」
②「ポリアンナ」の本。牧師の娘で、親を亡くし孤児となったポリアンナが母方の叔母に
引き取られます。父から聞いていた“いつも喜んでいなさい”というピリピ書4章の教えに
感動して、様々な試練の中での『喜び捜しの名人』となります。
叔母の家では暗い屋根裏の部屋が与えられます。ポリアンナは、紙に窓枠の絵を描いて、
壁に張り、「ここに窓がある」と自分に言い聞かせて、試練を乗り越えて行きます。
この二冊を回覧しますので、受けた恵みを礼拝の「開心の時」に証しして頂ければ嬉しいです。
<祈り>
使徒ペテロは、自分の経験を基にして、2000年前の地中海の北東の地域
(今のトルコ)に離散し、寄留しているキリスト者たちを励ますために送ったのが、この手紙です。
内側の問題に、“たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。”と勧めをしています。
外側の問題に、“異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。”と勧めをしています。
今朝、『主に従うということ』について学びたく願っています。
使徒ペテロは、18節では、“しもべたちよ”と呼びかけています。
“しもべたち”→ 2000年前の、社会情勢を指し示している言葉です。
当時は、ローマ帝国の支配下の中で、奴隷制度が公に認められていました。
“しもべたち”→ 奴隷制度が反映されている言葉です。
奴隷とは、個人の尊厳とか個人の自由とか、全く認められないで、
主人の権威の下に置かれていて、多くの奴隷は束縛され、強制労働に従事させられていました。
・エジプトで奴隷とされたイスラエル人の苦しみ、嘆き、悲鳴が、出エジプト記の始めに記録!
・奴隷の中には、その重圧に耐え兼ねて、暴動を起こしたり、逃げ出す者もいたのです。
ピレモンの家から、逃げ出した オネシモ もその一人です。
◆ペテロは、そのような奴隷制度が認められていた社会で、
最下層の奴隷よりも、主人に認められ、家事の一部を任せられていた“しもべ”に対し、
主人に服従するようにと勧めています。
◇新共同訳聖書では、“召し使いたち”と翻訳されています。
◇創造主訳聖書では、“人の下で働く人は”と翻訳され、
現代の私たちにも、この教えを当てはめて考えるように意図されています。
18節“しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。”
この教えは、すぐ前の段落に示された教えから、自然に導き出される教えです。
13節“人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。………”
“すべての制度に、主のゆえに従いなさい。”
17節“すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。”
尊敬に値する人、目上の人には、従いなさいとは教えていません。
“すべての人を敬い、……”
◆聖書の語る『すべての』という言葉を、割り引きして考えないようにしましょう。
神の『すべて』は、文字通り『すべて』です。そのまま信じれば良いのです。
社会の底辺で苦しめられている人々にも、“すべての人を敬いなさい。”と
言われても無理な教えのように困惑する者たちもいたことでしょう。
◆イエス様は、公の活動を始められる前に、ガリラヤ湖の漁師たちに、
“わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう”と招かれました。
漁師たちは、すぐに反応して、網を捨て、船を残して、イエス様に従いました。
◆時を越えて復活の主イエス様は、今も、
“すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。”と招かれています。
私は66年前の20歳の時に、この招きのみ声を聞き、素直にイエス様のもとに行っただけで、
疲れをいやされ、罪の重荷を取り去っていただき平安と希望をもらったのです。
あなたも例外なく、招かれているのです!
自分だけ、招かれていない。招かれるはずがないと思わないで下さい。
18節“……意地悪な主人にも従いなさい。”
“奴隷”や“しもべ”と言えども、神のかたちに似せて造られた人間です。人の子です。
しかし、人の人格や人権を無視して、人間扱いしない“意地悪な主人”がいるものです。
◆この18節は、今の社会の不安定な雇用関係の中でも、通用する真理です。
今では、「パワーハラだ」と悩む人たちもいますが、
あまにもひどい場合は、内部告発する勇気のある人たちもいますね。
しかし、この聖書は“……意地悪な主人にも従いなさい。”
◆絶対的な主権を持っておられる、全知全能の神を「王の王、主の主」と信じる者は、
この、み言葉を受け入れやすいのではないでしょうか。
19節→“もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに
悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。”
不当な苦しみを受けることは、非常に苦しいことです。
とても出来ないように思えることが出来るのには、理由があります。
“神の御前における良心のゆえに”
→“神を仰いで”(口語訳)
“神がそうお望みだとわきまえて”(新共同訳)
不当な苦しみを耐え忍ばせるのは、まことの神への信仰です。
全知・全能なる生ける神への信頼です。
神様は、自分の今のこの苦しみをご存じで、
時が来れば必ず神様は、最善をしてくださると信じることができます。
神の許しの中で起こった苦しみは、
必ず万事が益とされると、信じ受け止めることができます。
◆「異端ポケットシリーズ」や「聖書の重要真理」の出版のために、
オリーブ社社長であり牧師の山本杉広さんとは、親しくさせてもらいました。
若いころに大病を患われた体験を書物にされました。
『病気』でなく『病喜』と言う書名をつけられました。
「病気の中でも、主なる神は最善をして下さる!」
「病気を通して、またイエス様が何か新しい事をして下さる!」との信仰の現れです。
◆聖書は、神のしもべとされた私たちに対して、今の時代においても、
“敬意を込めて主人に従いなさい”と勧めています。
◆「主人に服従する」「主人に仕える」と言うことを考えるたびに、一人の兄弟を思い出します。
及川兄弟です。彼は青年時代に神戸で、イエス・キリストによる救いを体験されました。
仕事は大工で、平野教会を立派に建てられ、自分はイエス様と一緒の仕事をしていると
誇りにしておられました。
ある時「及川兄弟、腕もあるし、そろそろ独立して工務店を開けばどうですか」とたずねたら、
彼は「僕は、上から命令されてする方が好きで、その方が楽やから、独立しない。」
「主人に従う」「主人に仕える」とは、もし生ける神・主権者なる神を信じなかったら、
「辛抱する」「我慢する」と言う暗いイメージの言葉になるでしょう。
しかし、まことの神・イエス様が、どのような生涯を送られたかを学ぶときに、
主を信じる者の幸い、主に仕える者の恵みを体験できます。
イエス様は、父なる神のみ心に服従され、神の祝福を十分に受けられたのです。
主を信じる者にとって、「主人に従う」「主人に仕える」とは、
主が最善をして下さると信じ、待ち望み、主に仕えることで、明るいイメージが含まれる!
預言者イザヤは、待ち望むことの重要さを良く知っていました。
“立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、
静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。”(イザヤ30:15)
“それゆえ主は
あなたがたに恵みを与ようとして待ち、
それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。
主が義の神であるからだ。
幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。"(イザヤ30:18)
“しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼を広げて上ることができる。
走っても力衰えず、歩いても疲れない。”(イザヤ40:31)
私たちは、神のみ前で、静に待ち望むことによって、整えられ、聖められ、強められます。
クリスチャン以外の人にも、良く知られている、星野富弘さんの詩を、紹介します。
彼の詩画集の中に載っているものです。
◆ルリヤナギの絵に添えられた詩です。(るり色の可憐な花を咲かせ、ナス科の木ですが、)
葉っぱが柳の葉のようなので、ルリヤナギと呼ばれています)
待っていた 今は、スマホですぐに検索できますね。
雨の日も
晴れた日も
じっと待っていた
待っていたあいだに
美しくなった
◆ぺテロ第一2:18~21a
◆応答の時◆