11-193「キリスト者の新生活の心得」ペテロ第一1:13~17 (F104) 2024.04.07

お早うございます。

私たちは今日も、週の始の日に、全世界にいる神の家族の一員として、礼拝を捧げています。
 これは、主イエス・キリストの憐れみと恵みによって可能になっているのです。

主イエス様は、全知全能なる神様ですから、終末の時代に何が起こるか教えられました。
 規模の大きな自然災害や先の見えない紛争・戦争のニュースが、人々を不安にさせます。
 しかし、私たちはキリストにあって、揺るがない平安と確かな希望をいただいています。

4月になって、学校や会社では、新年度を迎えました。
私たちキリスト者は、日々、新しい生活をするようにと、神が願っておられます。
使徒パウロは
 “私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、
  内なる人は日々新たにされています”と語っています。コリント第二4:16
今朝は、キリスト者の新生活とは、どんな生活を送ることなのか考えて見ましょう。

<祈り>

聖書全体を通じて、私たちの生涯と深く関係する、一番大切なことは『救い』です。
 私たちは、罪と死と永遠のさばきから救われる必要があるからです。
聖書全巻・66巻に、一本の赤い線が引かれていると言えます。十字架の血による赤い線。
聖書の伝える救いは、私たちがこの世で経験する何よりも、素晴らしい最大最高の経験です。
ただイエス・キリストを信じることによってのみ、永遠の救いを受けられます。
 私たち一人一人にとって、非常に大切な体験なのです。
ですから、神は私たちに、
“あなたは、あなたの神に会う備えをせよ。”(アモス4:12)と語っておられます。

私たちクリスチャンは、『救い』と言う言葉には聞き馴れています。
ですから、軽く聞き流してしまう危険性があります。
今朝、学ぼうとしている、すぐ前の段落の部分で、
 救い主・メシヤが来ることを預言した旧約時代の預言者たちは、
  救いに関する記録を“熱心に尋ね、細かく調べました”と記されています。

また天使たちも、救いの事実を“はっきり見たいと願っている”とも書かれています。
 私たちの救いは、神に仕え、神のご計画をよく知っている御使いたちですら、
  一目、見たいと真剣に願ったほどに、素晴らしいものなのです。

私たちは、救われた者・新しく生まれ変わらせて頂いた者として、
 『新しい生き方』、『新しい生活』をするように、求められています。

ペテロは、キリスト者の新しい生活の3つの心得を語っています。

①13節“……イエス・キリストが現れのときに与えられる恵みを、
     ひたすら待ち望みなさい。”
イエス・キリストのご再臨のときに、もたらされる素晴らしい救いを待ち望みなさいと。
“待ち望みなさい。”文法上は強い命令形となっています。
“ひたすら”(副詞)とは“ただそればかり”“いちずに”という意味です。
完成される救い・完全にされる救いを、万全の状態で待ち望みなさいと言う意味です。
待ち望む状態を2つの言葉で説明しています。
 “ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、………”
“心を引き締める”
 昔の人々は、体を守るために長い服を着ていました。戦いや力仕事をする時には、
  服をまくり上げて、ベルトを締めて短くしました。
 “……腰には真理の帯を締め……”エペソ6:14
 私たちが、心を引き締めないと、サタンは心のスキをねらって入ってくるのです。
心を引き締めるとは、窮屈で、緊張の絶えない、つらい事ではないのです。
イエス様は、絶えず心を引き締めておられましたが、
 ゆとりのある、陽気で、ユーモアに満ちた歩みをしておられました。
イスカリオテのユダは、心を引き締めていなかったので、サタンに負けたのです。
 聖書には“……そのとき、サタンが彼に入った。”(ヨハネ13:27)と記されています。

イエス様は私たちにも、“誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。
 霊は燃えていても、肉は弱いのです。”(マタイ26:41)と語っておられます。
サタンは、イエス様をも誘惑したのですから、
 私たちは、なお一層、サタンに用心・警戒すべきです。
 サタンは、しばしば「お前は、それでもクリスチャンかね」と、大切な救いを疑わせます。
そして、救いの恵みや喜び・平安を奪ってしまうのです。

“身を慎む”とは、酒に酔っていない正気な状態を言います。
私たちは、日々、み言葉をしっかり心に留めていないと、
  こ世と妥協したり、世の濁流に押し流され、また飲み込まれてしまいます。
 ヘブル書の著者は、旧約の歴史を振り返り、次のように警告しています。
 “………、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留め、
  押し流されないようにしなければなりません。” ヘブル2:1

②14節“従順な子どもとなる”
 “従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、”
単なる従順ではなく、イエス様のように神のみ心に喜んで従う「従順」さが求められています。
 ☆ピリピ2:6~9 
 “キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
  ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
  人としての姿をもって現れ、自分を低くして、死にまで、
  それも十字架の死にまで従われました。
  それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。”
 ☆ヘブル書5:7~9
 “キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、
   大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。
キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、
完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救い源となり、………”

私たちは、イエス様からの語りかけに対しては、
  いつでも、どこでも、何でも「ハイ」と言える従順さが必要ではないでしょうか。

③15~16節
 “あなたがたを召された聖なる方に倣い、
   あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。
  「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖でからである」と
   書いてあるからです。”
 “生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。”→ 何という大きなチャレンジでしょうか。
  聖い生活の基準は何でしょうか。→“聖なる方に倣い”
   イエス様が、私たちの日常生活のお手本です。
イエス様ならば、この場合にはどう判断され、どう行動されるだろうかと考えてみることです。
ペテロ第一2:21“……その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。”

今、この世には、まことの神に背を向けて、自己中心の生活をする人が増えています。
そのために、この世は、どんどん堕落し、腐敗し、神の裁きの時を早めています。
私たちは、この世に『地の塩』、『世の光』として、遣わされています。
世の中が、暗くなればなるほど、『光』が必要です。
堕落すればするほど、『塩』が必要です。

テサロニケ第一4:7“神が私たちを召されたのは、
            汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです”

◆今週も、
 1.救いの完成を信じて、その救いを“ひたすら待ち望む”生き方。
 2.“従順な子どもとなる”生き方。
 3.“生活のすべてにおいて聖なる者”とされる生き方を目指して歩んでまいりましょう。

◆応答の時◆









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