102「完成に向かう永遠の救い」ペテロの手紙第一 1:1~9 (回) 2024.03.03
お早うございます。
私たち人間は、どんなに力があり、知恵があっても、やがては死んで行く者です。
死ねば、それで何もかもおしまい、すべては無に帰すると思っている人が多くいます。
それでは、動物と何ら変わりがないのではないでしょうか?
私たちは聖書が語るとおりに“神のかたちに似せて”造られています。
ですから私たちは、死とか死後の世界のことを考えるのです。
ヨブは“人は死ぬと、また生きるでしょうか”(14:14)と、人生最大の質問をしています。
伝道者の書は「私たちの体は土に帰り、霊はこれを与えた神に帰る」(12:7)と語っています。
この世の一時的な生活よりも、大切なのは死後の永遠の生活です。
なぜなら、人は死ねば、永遠の世界で、永遠に過ごすことになるからです!
今朝、『完成に向かう永遠の救い』というタイトルのもとで、み言葉を頂きたいと思います。
<祈り>
ペテロは、イエス・キリストを信じて救われた者を
“選ばれた人たち”(1,2節)とか“新しく生まれさせられた者”(3節)と呼んでいます。
前回は、“新しく生まれ変わった者”に与えられる3つの祝福について考えました。
1.生ける望み 2.天の御国で受ける資産・天国の財産 3.神の守り・保護 でした。
この3つの祝福は、この世の生活から始まって、永遠の生活に至る祝福です。
1.『生ける望み』とは、生ける神しか与えることのできない希望です。
誰にも奪われない望み、どんな事が起こっても決して失わない希望です。
何もかも奪って行く死によっても奪われない、永続する希望です。
2.『天で受け継ぐ資産』とは、永遠の祝福のことです。
“朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産”(4節)と言われています。
その素晴らしい資産が、最も安全な“天に蓄えられている”のです。何と有り難い!
3.『神の守り・神の保護』については、
“あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、……”と記されています。
キリスト者は、聖霊と天使によって、心身共にがっちりとガードされ、守られているのです。
今朝のメッセージ・タイトルは、少し考えました。
私たちキリスト者には“永遠のいのち”が与えられています。
“永遠のいのち”は、将来に、死後に、与えられると思っている人々がいますが、
今、“永遠のいのち”を与えられて持っています。
ですから、誤解を招かないように「完成に向かう永遠の救い」としました。
5節“……終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。”
“終わりのとき”→7節“イエス・キリストの現れるとき”→イエス様のご再臨のとき。
その時に、完全な“救いをいただくのです。
そうなれば、『今、救われていないのか?』と言えば、『今も、救われているのです!』
8,9節を読んでみましょう。
『救い』→イエス・キリストを信じる事によって、「的はずれ」と言われている
根本的な罪・不信仰で、自己中心的な罪を赦されたのです。
また、生まれてからの数々の日常的な具体的な罪から救われたのです。
「救い」は、私たちがこの世で経験する何よりも素晴らしい・最高の経験、最大の経験です。
「救い」には、言葉では、とうてい表現しつくせない喜びが伴います。
その喜びは、心の中に、じっとしまって置くことのできない喜びです。
6節“大いに喜んでいます。”
8節“ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。”
◆詳訳聖書では、
『言葉に言い尽くせない輝かしい<勝利の、天の>喜びで喜びおどって<感動して>します』
◎嬉しくてたまらない様子を表現する言葉として、
→ウキウキ、ワクワクして、足が地につかない、天に昇るような気持ちなどと言います!
そのような言葉でも表現できない喜びです。
しかし、喜びは失いやすく、喜びの感じ方には個人差が伴います。ですから、
使徒パウロは、“いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。”
と語っているのです(ピリピ4:4)。
◆私たち日本人は、奇跡的に助けられたり、思いがけず物事がうまく行った時などに、
「ほんとうに救われた」と言います。
聖書の語る救い、神がご計画された救いは、すべての人と関わりのある非常に重要な言葉です。
神から受ける『救い』は、罪からの救いで、私たちの過去・現在・未来に及ぶ、
実際的で、全人的な、スケールの大きなものです。
◆ヨハネ5:24(READ)→ イエス・キリストを信じている私たちは、
・過去においては、罪のさばき・刑罰から救われました。
・現在においては、罪の支配から救われています。→ 罪の力、束縛、影響から救われます。
・将来においては、罪の存在から救われます。→ この罪深い体が、完全に贖われます。
救→ 漢字では「求め続ける」という意味があります。
求→ 象形文字。頭や手足のついた動物の毛皮を描いたものです。
毛皮は、体に引き締めるようにまといつけるもので、
離れたり飛び散ったりしないように、中心に引き付ける、求めると言う意味が生まれた。
◆自分は救われている、このことだけで、決して自己満足してはいけません。
聖書は、「救い」とは、「求め続けること」だと教えています。
ピリピ2:12 “恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。”
テモテ第一6:12 “信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。……”
◆私たちは、イエス様の十字架による救いの事実と、
この肉の体が栄光の体に変えられる、完全な救いの約束を信じ、大いに感謝し、喜びましょう。
主イエス様は、私たちにも、
“霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、
あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。”(ルカ10:20)
天に国籍をもつ者とされている→ この救いの驚くべき事実を、大いに喜びましょう。
◆『救いの喜び』を失わせるものに、私たちは警戒する必要があります。
その原因を調べないで、放っておけば「救いの確信」さえも失ってしまいます。
その原因は色々あるでしょうが、み言葉を読まない事から来る霊的無知、心の栄養失調、
神様は私たちの必要を満たして下さいますが、必要以上に求める欲望、
神様に嫌われる数々の罪や悪習慣、
また、試練などを上げることができます。
この手紙では、特に『試練』が取り上げられます。
この手紙の受取人である兄弟姉妹たちは、迫害によって祖国から追放されていたのです。
1節“散って寄留している”
愛する者から引き離され、言葉や風俗習慣の異なる外国に追放されていたのです。
今の時代も、紛争や戦争によって、生まれ育った祖国を離れなければならない人々がいます。
私たちは、誰でも試練を受けます。
試練についての正しい知識を持っていないと、
信仰がぐらつき、重要な救いの恵みさえ失ってしまう事があります。
試練について、3つの事を学んでおきましょう。
1.試練の期間→“今しばらくの間”(6節)
夜の次に朝が必ず来るように、試練の夜はいつまでも続かないで、夜明けが必ず来るのです。
ダビデは詩篇30:5“夕暮れには涙が宿っても、
朝明けには喜びの叫びがある。”
試練は、決して出口のない洞穴ではありません。必ず抜け道があるのです。
パウロは“試練とともに、脱出の道も備えていてくださいます。”(コリント第一10:13)
試練を受けますと、その試練が、いつまでも続くように思えます。
解決の糸口が分からず、出口が見えず、途方に暮れ、疲れ果ててしまうことがあります。
試練の期間は長くはないのです。“今しばらくの間……”と受け止めたいものです。
2.試練の種類→“様々な試練の中で……”(6節)
私たちが、この世にいる限り、この肉の体を持っている限り、試練は避けられないものです。
試練は、実に多種多様なものがあります。試練が終わったと思うと次の試練が待っています。
知的障害、精神的な弱さを持つ、肉体的にハンディを持つ、難病と闘う、
ある問題を抱えて悩む、人間関係の試練、愛する者と死別、………
◆試練を受けますと、自分だけ特別な試練を受けているように感じ易いのです。
こんなひどい試練は、誰にも理解してもらえない。
人に話しても分かってもらえないと思い、あきらめます。
“あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。
神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練に
あわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、
試練とともに、脱出の道も備えていてくださいます。”(コリント第一10:13)
“私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、
あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。……”
(コリント第二1:3,4)
3.試練の目的→ 試練は神の許しの中で与えられるもの。
ですから、どんな試練にも、神様の目的があります。
7節“試練で試めされているあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも
高価であり………”
試練は、信仰をテストするため、信仰を聖め強くするために、
神の許しの中で与えられるものです。
試練は、信仰から不純なものを取り去ったり、弱いものを強くしたりします。
ヨブは“……私は試めさられると私は金のようになって出て来る”(23:10)と語っています。
◆北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの母、さきえさん→ヨブ記で救われた。 23:8~10
◆『救いの喜び』を持ち続ける秘訣はあるのでしょうか? あります!
8節 → イエス・キリストを愛し、信じること。
愛することは、信じること。 信じることは、愛することです。
私たちのために、ご自分の一番大切な命まで捧げて下さった主イエス・キリストを、
私たちが、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、愛するなら、
私たちは、日ごとに変えられて行きます。そして、ペテロが記しているように、
“……ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。”という貴重な体験。
◆「完成に向かう永遠の救い」
ローマ8:23“……私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、
心の中でうめいています。”
◆今週も、救いの恵みを感謝しつつ、救いが完成される日を待ち望みながら、
信仰による歩みをさせていただきましょう。
◆応答の時◆