100「恵みと平安があるように」 ペテロ第一1:1~9 (回) 2024.02.11
お早うございます。
ヨハネの福音書から、イエス様が「わたしは…………である」と語られた「イエスの自己紹介」
シリーズとして、み言葉の学びを終えました。
今朝から、ペテロの手紙の学びを始めたいと思います。
今、世界情勢がカオス状態で、混沌としているからです。
12弟子の一人・ペテロの言葉に感じる所があったからです。
“万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。 何よりもまず、互いに熱心に愛しなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。
それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、
その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、
神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。
すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。
この方に栄光と力が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。”
ペテロ第一4:7~11
<祈り>(人間の愛が冷えて、憎しみや紛争が広がる時代となりました。
試練・迫害の中で、礼拝を捧げる聖徒たちが守られるように)
(自然災害に苦しんでいる人たちが、平常の生活を取り戻せるように)
ペテロが「人間をとる漁師」として、大きく用いられたことに、改めて感動しましたので、
今日から「ペテロの手紙」を、じっくりと学ばせていただきたいと思っています。
神様は、実に、いろんな人々を用いて、
ご自分がされたみわざとメッセージを伝え、記録させられました。
その場合、神は人を、奴隷のように、また機械のように用いたりなさいませんでした。
その人の人格や個性を大切にしながら、賜物を引き出し、賜物を磨きながら用いられました。
◆多くの手紙を書き残したパウロは、ユダヤ人でありながら、
ローマの市民権をも持ち、幅広い学識を身につけたエリートでした。
復活のキリストに出会って、迫害者から一転して、伝道者となり、神に大きく用いられました。
ですから、パウロが書き送った多くの手紙には、さまざまな難問題が取り上げられ、
神学的にも、霊的にも、深みのある内容が含まれています。それに対して、
今日から学ぼうとしている手紙の著者ペテロは、ガリラヤ湖で働く、ごく普通の漁師でした。
ペテロには妻があり、姑もいたので、彼の手紙は家庭的、実際的な内容に満ちています。
ペテロの手紙第一は、1節に記されているように、小アジヤの北東の地域(今日のトルコ)の
“ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジヤ、ビティニアに散って寄留している”兄弟姉妹たち、
諸教会へ送られ、回覧された手紙です。
生まれたばかりの教会に対して、厳しい迫害の嵐が近づいていました。
年老いたペテロは、迫害の試練にある兄弟姉妹たちを励まそうとして、この手紙を書きました。
神の約束を信じて永遠の希望を持ち続け、さまざまな苦難に耐え忍んで欲しいと願いました。
パウロの手紙を『信仰の手紙』、ヨハネの手紙を『愛の手紙』と呼ばれるならば、
今朝から学ぶ、ペテロの手紙は、まさに『希望の手紙』と言うことができます。
聖書学者・グッドスピードは、「ペテロの手紙は、最も感動的な小さな作品の一つである。」
◆W.バークレーは、
「今日でもペテロの手紙第一は、新約聖書の中で最も読みやすい書簡の一つである。
それは人間の心を引き付け、心に訴えるものを失っていないからである。」
著者ペテロについて、思い起こしておきましょう。
イエス様の12弟子の中で、ペテロほど、赤裸々な人間性を表している弟子は他にいません。
ペテロは、見栄も体面も気にしないで、すぐに行動する情熱家でした。
考えるよりも、先におしゃべりし、体が動く、子供のように純情で、行動的な弟子でした。
4つの福音書と使徒の働きの前半に、ペテロの記事が多く出てきます。
多くの方が、このペテロに親近感を感じ、この手紙に引き付けられます。
◆ロバート・リーという聖書学者は、
福音書とペテロの手紙を比較し、次のように記しています。
「福音書に描かれたペテロの姿と、
彼の手紙に描かれた姿との間には、驚くべき、また、輝かしい相違がある。
福音書には、変貌された主イエスを見たペテロ、
この手紙には神の無限の恵みによって変貌したペテロが示されている。
福音書には、猛烈な、勇敢な、落ち着きのない、人にあなどられると、すぐムキになる、
そして、この世の権力を熱望していたペテロが見られるが、
この手紙には、忍耐強い、落ち着いた、心の広い、信頼すべき、愛すべき、また、
かつての軽率さと肉的な勇気が聖められたペテロが見られる。この手紙は、
神の恵みが大きな変化を与える力を持っていることを、証拠だてる素晴らしい模範がある。」
◆今朝は、1,2節から、み言葉を学ばせていただきます。
1節 → ペテロの自己紹介の言葉です。
“イエス・キリスト”
ペテロの心の中には、イエス・キリストによる救いの恵みが一杯になっていたことでしょう。
ペテロは、自分の罪や失敗をすべて赦してもらったイエス様の愛に満たされていたでしょう。
彼には、信仰による救いの喜びや感謝、また平安が満ちあふれていました。
“使徒”
イエス様が、もしペテロを選ばれなかったならば、彼は、ただの漁師として一生を終え、
歴史に名を残すことはなかったと思います。
“使徒”→ 自分に与えられた新しい仕事に光栄を感じ、
人間をとる漁師としての使命を厳粛に受け止めていたことでしょう!
◆今日“使徒”は、どこにもいません。使徒の条件の一つは、復活のキリストの目撃証人です。
しかし、遣わされた者という意味で、“使者”はいます。
使徒パウロが、コリント人への第二の手紙の5章20節で述べているように、
すべてのキリスト者は“キリストに代わる使節・使者”であります。
私たちには、十字架による和解の福音を伝える使命が与えられ、この世に派遣されています。
“ペテロ”
ペテロが、この手紙を書き始めた時、特別にイエス様の愛と期待を思い起こしたことでしょう。
彼の親譲りの名前は「シモン」でした。イエス様が彼に、ニックネームをつけられたのです。
“お前をこれから、「ケパ」即ち「ペテロ」と呼ぶ”と。ペテロとは『岩』と言う意味です。
◆私たちは、何かの席で自己紹介する必要があれば、どのように自己紹介するでしょうか。
イエス・キリストの栄光を表すには、どのように自己紹介すれば良いでしょうか?
私の場合は、「私は、ホサナ・キリスト教会の牧師の辻川です。」………
使徒ペテロは自己紹介に次いで、ギリシャ語の聖書で、一番初めに出ている言葉は
“選ばれた人たち”と言う言葉です。
“選ばれた人たち→ 神が人を選ばれる基準は、人間の基準とは全く違います。
神は、私たちが、すぐ役に立つ人間だから、選ばれたのではありません。
また、神の基準や条件を満たしているから、選ばれたのではありません。
神は一体、どんな者を選ばれたのでしょうか。
◆コリント第一 1:26~ →『驚くべき神の選び』が記されています。
“この世の愚かな者を選び、この世の弱い者を選ばれました。この世の取るに足りない者や
見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。”
“選ばれた”→ この事実は、神の憐れみ、神の恵み以外の何物でもありません。
神が、愛なるお方であり、全能の神であられるので、無に等しい私たちを選んでくださった!
神は、死人を甦らせ、無から有を呼び出す全知全能の神ですから、
私たちの資格や才能をとやかく言われないで、一方的に選んでくださったのです。
神は、人が問題にすることを、全く問題にはされません。
だから、私たちは『神に選ばれた!』と確信を持つことがてきるのです。
◆預言者エレミヤに、神は次のように語られました。
“わたしは、あなたを胎内に形造る前から、
あなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、
国々への預言者と定めていた。" (エレミヤ1:5)
◆使徒パウロは、“神は、世界の基が置かれる前から、この方にあって私たちを選び、
御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。”(エペソ1:4)
◆イエス様は、弟子たちに
“あなたがたがわたしを選んだのではなく
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、
あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため、……”ヨハネ15:16
神様は、ご自分の主権で選んだ聖徒たちを、特別待遇してくださるのです。
◆詩篇の中の素晴らしい約束のみ言葉が沢山あります。
私の心に張り付いている詩篇4:3“知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。”
VIPの扱いです。Very Important Person
◆40数年前の1984年、韓国の宣教100年記念大会がヨイド広場(元飛行場)で開催されました。
日本から100人ほど出席しました。私もその一人で、VIPの扱いを受けました。
ビリーグラハムが立つ説教壇の斜め後ろのひな壇にパイプ椅子。
出席者は、100万人で、元の滑走路に敷物をしいて座っている有り様でした。
神は選んだ者たちを、箱入り娘や息子のように、特別に過保護にはされません。
「可愛い子には、旅をさせよ。」との諺のように、
選んだ者を、訓練し、整えるために、試練をお与えになることがあるのです。
このペテロの手紙の受取人は、まさに、そのような人々でした。
“散って、寄留している”
「クリスチャンになった」「クリスチャンである」、ただそれだけの理由で、
当時のキリスト者たちは、迫害を受け、祖国から追放されていたのです。
家族や友人から引き離され、仕事も失い、
見知らぬ外国の地で旅人として寄留しなければならなかったのです。
◆私たちの苦難の厳しさとは、全く比べ物にならないでしょうが、
この世に散らされ、今置かれている所で寄留し、旅人として主に仕えていると言えます。
2節→『神の選び』に関わる、三位一体なる神の働きが記されています。
①“父なる神の予知のままに”→“父である神があらかじめ立てられたご計画に基づいて”
②“御霊による聖別によって” (新共同訳聖書)
神は、私たち一人一人をキリストの中に『選び』『救う』ために、前以て、
ご計画を立て、御霊の聖なる働きを進めてくださったのです。
③“イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように
選ばれた人たちへ”
私たちは、この神の選びの事実を忘れる事なく、日ごとに主に従い、
日ごとに主の十字架の血による聖めを受けて、前に向かって進もうではありませんか!
◆キリスト者の特別な挨拶の言葉が記されています。
“恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。”
これは、キリストによって造り変えられた者の心からの祈りであり、
人に対する優しさ、思いやりから出ている、とてもすばらしい祝福の言葉でもあります。
この順序が大切です。先ず『恵み』、『神の恵み』が必要です。次いで神からの『平安』です。
『恵み』が大前提で、その結果として『平安』が与えられるのです。
この手紙の中に、『恵み』が具体的に教えられています。
今後、学びを進める中で、神の恵みの一つ一つを受け止めて行きたいと願っています。
『平安』→ 神が与えて下さる平安。それは、試練のただ中にあっても失わない『平安』です。
◆“わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。
わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。ひるんではなりません。”(ヨハネ14:27)
◆今の時代、あまり手紙のやり取りをしなくなりました。
紙・ペーパーを用いないで、電波で・SNSで、すぐに地球の裏側と連絡がつきます。
1~2節の手紙の書き方を、私たちは大いにお手本とすべきではないでしょうか。
◆応答の時◆