『イエスの自己紹介⑥ わたしはまことのぶどうの木、あなたがたは枝です』
ヨハネ15:1~17 (回) 2024.02.04
お早うございます。
私たちは“神のかたち”に造られた者として、創造者なる神を礼拝できることを感謝します。
また、救い主なるイエス・キリストを礼拝できることを感謝しましょう。
今年は、元日に能登半島地震があり、人々の心に大きな不安材料を見せつけました。
先週は、JR阪和線と南海高野線で、2日連続して人身事故が起こりました。午後7~9時の間に。
生きようと思っても生きられない人がいる中、残念な事故が………
何年か前に、教会のパトロールに来て、しばらくして帰ろうとしたら、
踏み切りの遮断機が降りっぱなし、側にいた方が「三国ケ丘」の踏み切りは空いていると
教えてもらい、遠回りして帰ったこともありました。
時が良くても悪くても、福音を伝え続ける必要があります。
<祈り>
(憎しみや紛争が絶えない危険な所で、礼拝を捧げる聖徒たちが守られるように)
(能登半島地震の被災者たちが、平常の生活を取り戻せるように)
今朝、主イエス様がお語り下さった有名なみ言葉をご一緒に、学びましょう。
5節“わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。”
このみ言葉は、クリスチャンなら誰でも知っているようなポピュラーなみ言葉です。ですから、
安易に考えたり、メルヘンの世界で理解する傾向があるのではないかと思います。
厳しい現実の戦いの中から話されたみ言葉、まさに遺言のように重みのある言葉です。
決して聞き逃したり、忘れてはならない重要なメッセージが含まれています。
15:1“わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。”
ここでは、主イエス様は、父なる神との関係を紹介しておられます。
15:5“わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。………”
ここでは、イエス様と私たちは、ぶどうの木と枝の関係であると語っておられます。
この言葉を正しく理解し、受け止めるために、話された背景を考えておきたいと思います。
イスカリオテのユダが、イエス様から裏切り行為を指摘され、最後の晩餐の席をはずした後、
ペテロも3回イエス様を否定すると予告もされます。
イエス様ご自身が、弟子たちから離れて、別の世界に行こうとしておられるのを知り、
弟子たちは不安と動揺、悲しみと緊張の中にあったのです。
14:30~31
“わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。………立ちなさい。さあ、ここから行くのです。”
今学ぼうとしている15章は、最後の晩餐を終えて、
ゲッセマネの園に行かれる途中で話されたのでしょう。
イエス様は、ぶどうの木の所で立ち止まって、実物教育されのかも知れません。
剪定する時期であったので、剪定され切り口の生々しい枝や、
足元に切り落とされた枝を指さしながら、
“わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、
実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。”(2節)と
話されたのでしょう。
ぶどう畑の中に、ぶどう酒を造るための、石の酒ぶねがあったでしょう。先祖代々が使っていた
その酒ぶねは、まるで血に染まったようなももあって、
イエス様には、目の前に迫っている十字架の出来事と重なり合ったことでしょう。
5節“わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、
その人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。”
この中には、私たちの信仰生活の核心に触れるよう大切な真理が教えられています。
イエス様と私たちの命の関係です。イエス様が「ぶどうの木」で、私たちはその「枝」です。
私たちがイエス様にしっかりとつながっている時に、
私たちはイエス様から命を戴き、生きることができます。
雨に打たれようが、風に吹き飛ばされそうになっても、繋がっていることが大事です。
主イエス様は私たちが、ただ生きているだけでは満足されないで、
枝である私たちが実を結ぶこと、しかも豊かに実を結ぶことを願っておられます。
◆豊かな実を結ぶために、2つの事が大切です。
①ぶどうの木に、しっかり“とどまる”こと。つながっている事が大切です。
“とどまる”10回以上記されています。“とどまる”→ KEYワードです。
私たちがイエス様を信じ続け・信頼し続けるときに、
神の命を戴き、命に溢れ、命に輝いて、真に生きることができます。
②“刈り込み”(2節)
栄養が分散したり、日光の恵みをさえぎらないために、余分な枝を切り落とす剪定が大切です。
“刈り込み”は、枝にとっては、つらい、痛みの伴った出来事です。
“刈り込み”は、私たちの信仰生活では、試練を表します。
☆ヘブル12:11には、
“すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、
後になると、これによって鍛えれた人々に義という平安の実を結ばせます。”
◆ほかに、どんな実を結ぶのでしょうか。
① 7節→祈りの実。→14:14 15:16b 16:24
祈りは必ず答えられます! 私たちは日々の生活の中で、具体的な祝福を受けるのです。
②10節→愛の実。
愛という言葉は、良いものが一杯詰まったような言葉です。
優しさ、思いやり、親切、寛大さ、もちろん「赦し」も含まれます。
コリント第一の13章・愛の章には、
“愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分利益を求めず、
苛立たず、人がした悪を心に留めず、
不正を喜ばずに、真理を喜びます。
すべてを耐え、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを忍びます。
愛は決して絶えることがありません。………”(13:4~8)
③11節→喜びの実。喜びは、私たちの心のエネルギーです。
私たちは、何かに喜びを見出せないと、やる気、生きる気力まで失ってしまいます。
喜びが、心のエネルギーとなる実例を、聖書から二つ上げて見ましょう。
◆昔、様々な危険と困難を乗り越えて、エルサレムの城壁を完成した時、
ネヘミヤが語った言葉があります。 8章10節→
“主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。”(2017年訳)
“主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。”(新共同訳)
◆イエス様の例(ヘブル12:2)
“信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、
辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。”
◎主イエス様は、復活の喜びを信仰によって先取りされたので、
あの心も体も張り裂ける、十字架の恐ろしい苦難を耐え忍んで下さったのです。
④16節→キリストの証し人としての実。救霊の実。
私たちがキリストを証しする事によって、誰かが救われることが大切です。
人が救われる→ 天で大きな喜びがあり、天に宝を積むことになるのです。
この目的を成し遂げるようにと、私たちが選ばれているのです。
枝である私たちが、どんなに見栄えがせず、弱々しくても、
切り落とされず、選ばれ、残されているのです。
◆ぶどうの木であるイエス様に、しっかりと“とどまって”、
4つの実、即ち、祈りの実、愛の実、喜びの実、救霊の実を結んだ一つの実例を紹介します。
Q.聖書66巻の中で、非常にユニークな書が1つ入っている。なぜこんな書が入っているのか
疑問に思ったことはないでしょうか? それは、ピレモンへの手紙です。
その手紙は短い個人的な手紙です。しかも、主人の物を盗んで、ローマに逃げた奴隷オネシモ
に関する手紙です。その手紙には、神のなさる素晴らしいドラマが絵のように描かれています。
主人ピレモンは、コロサイ教会の霊的にも物質的にも恵まれ信徒で、“家の教会”を開いていました。
彼は祈祷会で、悪事を働いた奴隷オネシモが悔い改めて救われるようと熱心に、愛の祈りを捧げ
ていたでしょう。不思議なことが起こった。ローマに投獄中のパウロと出会い、救われたのです。
その手紙の中で“……今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。
…もはや奴隷としてでなく、奴隷以上の者、愛する兄弟として”受け入れて欲しいと書き送っています。
コロサイ4:9→ オネシモは、パウロの同労者の仲間の中に入れられ
“忠実な、愛する兄弟オネシモ”と紹介されています。
◆ヨハネ15:5→
READ! 祝福されたクリスチャン生活の秘訣が、ここに記されています。
【応答の時】