『イエスの自己紹介⑤ わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』ヨハネ14:6
(回) 2024.01.28
お早うございます。
世界各地で平和の暮らしが脅かされています。自然災害である地震や異常気象による災害、
さまざまな差別による事件が多発しています。アメリカでは銃による乱射事件が度々起こります。
今朝、私たちは、平和の君である主の前に静まって、礼拝を捧げることが出来るのは、
主の恵みそのものです。
<祈り>
(憎しみや紛争が絶えない危険な所で、礼拝を捧げる聖徒たちが守られるように)
(能登半島地震の被災者たちが、平常の生活を取り戻せるように)
イエスの自己紹介シリーズの学びをします。今朝は、イエス様が、
“わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。”とお語りになったみ言葉に心を留めましょう!
イエス様は、十字架の前の晩、最後の晩餐の席上で、非常に重要なことを話されました。
ヨハネの福音書14~16章に記されています。
この中には、信仰生活の核心に触れるよう大切な真理がたくさん話されています。
救い、祈り、信頼、愛、平安、聖霊、再臨などです。
12弟子たちは、イエス様と寝食を共にしながら、町々村々を巡ってイエス様のお手伝いをした。
ある日、弟子たちには、思いがけないショッキングな夜が来たのです。
いつもと違い、夕食前に、主であり、師であるイエス様が、奴隷のように身をかがめて、
弟子たちの汗と砂ぼこりで汚れた足を洗い始められたのです。
そして、楽しいはずの夕食の席上、
“あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。”と爆弾宣言されました。
その時の弟子たちの反応は、“……当惑し、互いに顔を見合わせていた。”と記されています
(ヨハネ13:21~22)。
イスカリオテのユダが席をはずした直後、イエス様が話された言葉を読んで見ましょう。
13:33~38
13:33“……… わたしが行くとひろに、あなたがたは来ることができません。”
36“………主よ。どこにおいでになるのですか。”
“………わたしが行くところに、今はついて来ることができません。”
37“主よ。なぜ今はついて行くことができないのですか。”
弟子たちは、主イエス様が自分たちの世界とは、別の世界へ行こうとしておらるのを知って、
非常に心細く、不安になったのです。
仲間のユダがイエス様を裏切るために席をはずすし、
ペテロはイエス様を三度も知らないと否定すると予告されます。
弟子たちは、大変なことが起ころうとしている事を、否応無しに認めなければならなかったのです。
自分たちに対する、敵対心が高まるエルサレムで、イエス様がいなくなり、
自分たちの結束も弱まれば、一体どうなるのかと、不安になり、緊張し、心が動揺したでしょう。
そのような状況の中で語られたのが、遺言的といえる説教で、14~16章に記されています。
14:1~6
トマスの“主よ。どこへいらっしゃるのか、……どうして、その道がわかりましょう”との
質問に対する答えが、イエス様の自己紹介の一つです。
6節で、イエス様が“わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。”と語られたのです。
トマスは『道』について尋ね、イエス様が“わたしが道である”と答えられただけでなく、
“真理であり、いのちなのです。”と、二つの事を加えられたのです。
「道」、「真理」、「いのち」→ これらの言葉は、非常に大切な言葉です。
①.『道』であるイエス様について、
英語では、ある特定のものを限定する定冠詞“the”が、この三つの単語にくっついています。
イエス様が語られたのは、the way であって、a way ではありません。
多くある、様々な道の一つではなく、ある特定の場所に導く、ただ一つの道であります。
道→ 漢字の意味は、首(すなわち頭)を向けて進んで行かせるもの。
人々を目的地に案内するものが『道』です。
目的地については、2,3節で
“わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、
あなたがたのために場所を備えに行く、と言ったでしょうか。
わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、
あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。”
“父の家には”→『家』→ 3LDKなど、狭い固定観念で考えやすい言葉です。
詳訳聖書では“父のおられる所”と訳しています。
“父の家”とは、神の国、天の御国を表す言葉です。
広大な天国には、住まいが沢山用意されている。
私たちの住む、安全で快適な場所が用意されて、準備が完了し次第に、
イエス様が、私たちを迎えに来て下さる。
私たちを天国に導き、天の住まいに案内する安全で、確かな道がある。
その道が、イエス様ご自身である、と言うのです。
◆家内を天に送って7か月たちます。
マンションに隣接する公園を毎日のように散歩します。
上を見上げて、「天国の何州の、何通りの、何丁目何番地に住んでいるんか」と呼びかけます。
「そっちから来れないけど、ぼくがそっちへ行くから待っててね…………」
“わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。”(ヨハネ14:6)
イエスと言う道を通らないと、私たちは誰一人、永遠の故郷に行く事はできません。
ヘブル書10章20節には、
“イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、
私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。”
このヨハネの福音書の1章1節は“初めにことばがあった。………”
「元訳」と呼ばれる聖書があります。文語訳聖書の前の訳です。
そこには“太初に道(ルビ→ ことば)あり”となっています。
イエス様が『道』だから、十字架によって完成された救いを伝えることを『伝道』と言うのです。
②『真理』であるイエス様について。
イエス様は、はっきりと、ご自身が真理であると言われています。
この世には、真理を知っている、真理を教えることができると言う人は沢山いるでしょう。
しかし、イエス様は、“わたしが真理である”と断言されたのです。
イエス様は、この福音書の8章の中で、
「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。……
ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」
(ヨハネ8:31~36)
真理であるイエス様ご自身を知り、信頼し、お従いして行く時に、
私たちは、さまざまな束縛から解放されて、自由と平安の恵みを満喫するようになれるのです。
③『いのち』であるイエス様について。
ヨハネは、イエス様を世界に紹介するために、この福音書を書いたのですが、
イエス様が、すべての人が求めている『いのち』であると紹介します。
この福音書の初めの所で“この方にはいのちがあった。この方は人の光であった”(1:4)と紹介し、
福音書の結論部分(20:31)で
“これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、
また信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。”
と書き記しました。
彼は、この福音書を通じて“いのち”と言う言葉を35回以上用いて、
イエス様を救い主として紹介しています。
“いのち”①ビオス(肉体的な生命)→ 有名な胃腸薬が販売されています。
②ゾォーエー(もっと次元の高い生命)
聖書では、ゾォーエーと言う言葉が用いられ、“永遠”と言う言葉とよく結び付いているのです。
“いのち”は、“死”と対立する言葉です。
私たちは罪のために死ななければなりません。
私たちに最も必要なものは『いのち』『永遠のいのち』です。
ヨハネ3:16に、
“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”
ヨハネ10:28~29
“わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。……だれも彼らを奪い去りはしません。”
◆『朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり』と言う、孔子の有名な言葉があります。
誰にも平等にやって来る、手ごわい最後の敵『死』に対する解決の道を知れば、
いつ死んでも良い。今晩でも、心残りはない。と言う意味でしょう。
イエス・キリストは“わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません”と。(ヨハネ14:6)
イエス・キリストは:
私たちを、安全で確かな場所・天国へ導く『道』なるお方です!
私たちの心を満たし、愛・喜び・平安を与えてくださる『真理』ですと断言されました!
私たちの罪を赦し、私たちに永遠の世界へ導いてくださる『永遠のいのち』を保証されました!
【応答の時】