『イエスの自己紹介④わたしは良い牧者です』ヨハネ10:10~18(回) 2024.01.14
お早うございます。
昨年は、三国ケ丘の地で開拓伝道を始めて四半世紀を迎え、開拓伝道25周年を記念した一年でした。
8月には、東京・国立教会の大山牧師を迎えての記念礼拝を捧げました。
先月は、岸先生を迎えてクリスマス・コンサートを開きました。
昨年の11月26日から、『イエスの自己紹介』シリーズを学び始めました。
年明けから「能登半島地震」が起き、『イエスの自己紹介』シリーズを 少し中断していました。
今日から、イエスの自己紹介シリーズの学びを再会します。今日は4回目です
『わたしは良い牧者です』と言われた、主イエス様のみ言葉を、ご一緒に学び
ましょう。
<祈り>能登半島地震による多くの被災者の方々に慰めと実際的な助けが届きますように、
寒波に見舞われた被災地で救援活動しておられる方々が守られますように。
◆私たちは、これまでどんな動物を飼ったことがあるでしょうか。………
私の祖父は農家だったので、牛一頭がいました。鶏も飼っていました。
下の姉が世話好きで、犬も猫もいました。
◆遊牧民のユダヤでは、羊がごくありふれた動物でした。
主イエス様は、「羊と羊飼い」と言う身近な例を取り上げて、
ご自分がこの世に来られた目的、使命を語られました。
この話をされたイエス様の周囲には、ユダヤの指導者たちの冷たい目と堅い心が、
見えない城壁のように立っていました。
また、「生まれたときから目のみえない人」が癒された奇跡を目撃した人々が、
好奇心に駆られて集まっていました。
勿論、イエス様の12弟子たちも、その場にいました。
そのような状況の中で、主イエス様は、9節の中で、
“わたしは門です。だれでも、わたしを通っては入るなら、救われます。
また出たり入ったりして、牧草を見つけます。”と明確に宣言し、約束なされました。
羊飼いたちは、季節によって、場所を移動しながら羊を飼う必要があるので
毎日、村まで帰ることはできません。
どうしても野宿をしなければないことがあります。
一日の放牧の仕事を終えて、野原に石を積み上げたりして、羊の囲いを作るのは、大変な作業です。
そこで、囲いを作り終え、羊が出入りする所に、羊飼いがゴロっと寝そべって、夜を明かします。
羊飼いは、文字通り『門』の役目を果たすのです。
羊飼いは、自分の体をもって、弱い羊たちを守ったのです。
羊が門から出るなら、羊飼いを乗り越えなければなりません。
また、狼や盗人が自分を乗り越えて入って来るなら、すぐに分かります。
羊飼いは、このようにして、命をかけて、羊の群れを守り続けるのです。
◆11節“わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。”
このみ言葉は、ユダヤ教のリーダーたちには、挑戦状を突き付ける言葉ともなったでしょう。
「わたしは良い牧者だが、あなたがたは悪い牧者たちだ。生まれながらの盲人に同情もせず、
助けの手を差し伸べるどころか、会堂から追放し、社会的に制裁を加えるとは………」
“わたしは良い牧者です。”このみ言葉は、信じる事をためらっている多くの人には、
警戒を呼びかける言葉ともなったでしょう。
「わたしは良い牧者だが、あなたがたは悪い牧者たちにはよくよく注意するように」と。
◆12~13節。
“良い牧者は羊のために、いのちを捨てます。”
これは、決して大袈裟な、誇張された表現ではありません。
イエス様は、真心から、真剣に、お語りになっているのです。
羊飼いと羊は、寝食を共にする家族のようなものです。
親が子供を命がけで守るように、羊飼いも一匹一匹の羊に名前をつけ愛し、世話をするのです。
盗人や強盗が群れをなしてやって来ると、羊飼いは必死で戦い、時には命を落とす事もあるのです。
◆新約聖書の研究で有名な、ウィリアム・バークレは、
『ほんとうの羊飼いは、その仕事に生まれついている。彼は歩くようになると、
もう群れと一緒に歩かされた。彼は羊飼いと呼ばれながら成長した。羊は彼の友、
彼の仲間となった。自分のことを考えるより先に、羊のことを考える。』(ヨハネ下P.84)
◆イエス様は、十字架の出来事を意識しながら、
15節“………また、わたしは羊のために自分のいのちを捨てます。”
17節“わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、
父はわたしを愛してくださいます。”
◆羊飼いと羊は、家族のように、密着した生活をしていました。
毎日、命の通った交わりの中で、羊飼いは羊をよく知っていたのです。
羊を知れば知るほど、愛が深まって行き、羊を愛するがゆえに、羊のためにいのちを捨てるのです!
“いのちを捨てる”→これは、痛みの伴った愛、捨て身の愛、犠牲の伴った愛です。
受ける側からすれば、受け取り難い、最高の・究極の愛です!
ヨハネ15:13
“人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。”
◆主イエス様は、これから起こる事を知っておられました。
先を見通して、不退転の決意で、
『わたしのいのちを捨てます』『自分のいのちを捨てます』と語られたのです。
先を見通す。これが信仰の一つの現れです。
主イエス様は、2つの必ず起こる事を信じておられた。
①17節“わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、
父はわたしを愛してくださいます。”
18節”だれも、わたしからいのちを取りません。
わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。………”
イエス様は、十字架の死の後に起こる、輝かしい復活を信じておられたのです。
旧約聖書の予言・約束を、しっかり受け止め、確信しておられたので、
このように言うことが、おできになったのです。
②16節。
“わたしにはまた、この囲い属さないほかの羊たちがいます。
それらもわたしは導かなければなりません。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。”
◆イエス様は、選びの民ユダヤ人の救いだけでなく、異邦人の救い、全世界の人々が
永遠の救いを受けるようにと強く願っておられるのです。
◆最終的には、“一つの群れ、一人の牧者となる”
イエス様は、ヘブル書の13章20節に記しているように『羊の大牧者』です。
この地上の各地にいる羊の群れの責任者は「小牧者」と言うことができます。
キリストの教会は、最後的には、大牧者キリストにあって、一つの大きな群れとなるのです。
そこには教派の違いも、教理の違いもなく、一つのまとまった群れとなる。
この16節には、私たちの使命と将来の喜ばしい約束が記されています。
私たちには、迷っているほかの羊たちに声かけ運動をする必要があります。
やがて天の御国では、一つの群れにされる大きな希望を感謝しましょう。
今朝の箇所で、イエス様は“わたしは良い牧者です”と、2回繰り返して、話されました。
“良い”というギリシャ語について考えて見ましょう。
①アガソス→ 道徳的に優れている、良い と言う意味。
②カロス→ 人とか物が良いと言うことだけでなく、その良さの中に、
私たちの心を和ませる「美しさ」や心を引き付ける「魅力的なもの」がある。
付加価値のある「良さ」、相手に良い変化・影響を与える「良さ」です。
◆70人訳聖書(ヘブル語の旧約聖書をギリシャ語に翻訳した聖書)。250年頃。LXX。
創世記の天地創造の記事のなかで、何度も出て来ます。
“神はその光を良しと見られた”、その後、創造のみ業が段階的に進むたびに
“神は見て、それを良しとされた” “神は見て、それを良しとされた”と記されています。
神が創造された世界は、私たちの目を楽しませ、心を喜ばせる素晴らしい世界で、
不思議で、有益で、魅力的な作品に満ちている世界です。
それを表現するために『カロス』(良い)と言う言葉が用いられているのです。
新約聖書の麗しい出来事の一つ、ツァラアトに冒された人(らい病人)シモンの家で、
イエス様の頭に、惜しみ無く高価なナルドの香油を注いだ女性の物語です。(マルコ14章)
側にいた者たちは、なぜこんな無駄な事をしたのかと、この女を非難したのですが、
イエス様は『わたしのために、良い(カロス)ことをしてくれたのです』と、喜ばれたのです。
詳訳聖書→“素晴らしい事、賞賛に値する、りっぱな事”
この女性は、ソロバンをはじかず、出来る限りの、最善の愛を、イエス様に示したのです。
“良い”=カロスを完全に訳すことのできる言葉はないと思います。
人を引き付ける魅力ある美しさ、心を憩わせ、豊かにする優しい愛の伴った良さ。
イエス様が“わたしは良い牧者です”とお語りなさったとき、
穏やかな表情で、笑みを浮かべながら、優しい・温もりのある言葉で話されたことでしょう。
イエス様は能率ばかり考え、事務的に、時間に追われて、羊の世話をするようなお方ではありません。
一日中、羊の世話をし、夜には囲いの入り口に、身を横たえ、ご自分を門として羊を守る
愛にあふれた羊飼いなのです。
“わたしは良い牧者です”とお語りになったイエス様は、羊のように弱い私たちに、
“すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。”(マタイ11:28)と、招いておられます。
最後に良い牧者に出会った人の、心が熱くなる・幸せな体験を読んでおきましょう。
詩篇23篇(p.954)
【応答の時】