「万物の終わりが近づきました」 ペテロ第一4:7~11 (回) 2024.01.07
お早うございます。
元旦礼拝を捧げて帰った後、4時すぎに「能登半島地震」が起きて、びっくりしました。
昨日の毎日新聞夕刊の1面には、「死者100人」、「石川県内 断水6万6000戸」と。
この死者の数は、残念ながら増えるでしょう。
津波で流されたり、倒壊した建物の下敷きになったりして、尊い命が失われました。
◆教会福音賛美歌436「遠き国や」を賛美し黙祷の時を持ちたいと思います。起立・黙祷
<祈り>
◆大地震の後、メッセージの箇所を変更しました。
今朝は、7節のみ言葉に、心をとどめたいと願っています。
“万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。”
◆新共同訳“万物の終わりが迫っています。だから、
思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。”
◆詳訳“すべてのものの終わり<完成の時>が、いまや近づいて来ました。
だから、健全な心を保ち<自制し>なさい。また油断なく祈祷<の実践>に励みなさい。”
“万物の終わりが近づきました。”
◆私たちはこのように実感しているでしょうか? 本当にそうだと受け止めているでしょうか?
誤りなき神のみ言葉・聖書がこのように伝えているのですから、間違いがありません!
主イエス様は、世の終わりには、どんなことが起こってくるのか、具体的に、はっきりと
予告・預言されています。
それが一つ一つ実現しているのです。→ マタイ24:5~8,10~14
ペテロは、“万物の終わりが近づきました。”と、なぜ確信を持って、
このように書くことができたのでしょうか。
ペテロは、イエス様の弟子として、終末の預言を聞き、その事を思い起こしていたかも?
彼は、この手紙の3章20節で、ノアの洪水にふれています。
ノアの洪水は、単なる自然現象ではありませんでした。
その当時の人々の生活が、神のみ心から掛け離れ、堕落し切っていたからです。
その罪の結果として、神ご自身が天から審判を下されたのです。
創世記6章に、次のように記されています。
“主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのを
ご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。……”
地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、見よ、
それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。”
(5~6,11~12節)
ペテロは、この手紙を書きながら、ノアの時代と共通する堕落した人間社会を見ていたようです。
4:3“あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、
好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、
それは過ぎ去った時で十分です。”
ノアの時代の人々は、性に関する罪、飲食・快楽に関する罪、偶像礼拝の罪を重ねて、
ついに神の審判を招いたのでした。
ペテロから、2000年経過した今の社会は、改善、改良され、道徳的に向上したのでしょうか。
明らかに、N0! と言えますね。
休息の夜・睡眠の夜を昼に変えて、活動する文明社会の裏の世界は、
醜くいこと、汚れたことが多く、堕落し、暴虐で満ちていることでしょうか。
その危険が、私たちの身近に押し迫っているのです。
◆ヘブル2:1“こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留め、
押し流されないようにしなければなりません。”
ペテロが、この手紙を記してから、もう2000年も歳月が過ぎ去りました。
2つの反応が考えられます。
1.万物の終わりが更に近づいています。確実に終末時代に突入しています。
世の終わり・神の裁きの日が、すぐ戸口まで来ています。
言い換えれば、恵みの時代が終わりに差しかかっていると言えます。
キリストの再臨が間近になっていると信じられます。→ 期待感・緊張感が与えられます。
2.何にも変わりはしない。何も起こらない。これは単なる脅しに過ぎないと
思うならば、サタンの落とし穴に落ち込むことでしょう。
ペテロ第二 3:3~13 を読んでみましょう。
時間の流れは、一定で、誰にでも同じ、平等です。しかし、感じ方には個人差があります。
今年も今日からアドベトに入りました。一年を振り返りますと、
「1年って早かった!」と思う人は、物事が順調に進み、幸せを多く体験した人でしょう。
「1年は長かった!」と思う人は、苦難・試練が多かった人ではないでしょうか。
私も体験しましたが、入院すれば、同じ一日でも、針が止まったかのように長く感じます。
ただ病院の天井を眺めて過ごす日は、とても辛いものです。
8節“……主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。”
この節の前後に、時の流れ方の違いを感じさせる、二つの出来事が記されています。
◆一日を千年のように、長く感じさせる出来事は、ノアの洪水による神の裁きです。
雨が40日間降り続きました。→ 人々は4ケ月、または400日位に感じたかも知れません。
ノアの時代の水による裁きと比較して、将来の火による裁きの事が預言されています。
あなたは、ここに預言されている神の裁きに会うことがないようにして下さい。!
◆千年を一日のように、短く感じさせる出来事は、13節の新天新地でしょう。
神は信じる者のために、天の御国・正義の住む新天新地をご用意していて下さっています。
あなたは、1000年を1日ように、2000年を2日のように感じさせるような
イエス・キリストの十字架による神の愛、赦しの恵みを体験なさっていますか?
永遠の天の御国に行ける神の約束を、手にしておられますか?
使徒ペテロが、身の引き締まるような思いで“万物の終わりが近づきました。”と語って以来、
2000年が経過しました。しかし、永遠の神なる主の御前では、たったの2日しか経っていない?
神を知らない人たち、聖書を信じない人たちは、ノアの時代の人たちと同じように、また、
ロトの婿たちのように、『万物の終わりが近づいている』という警告を、
冗談と思い、本気に受け止めていないのではないかと思います。
私は? あなたは? “万物の終わりが近づきました。”→ 本気で、真剣に受け止めている?
『世の終わり』を信じていても、心の中では『今すぐではない!』『もっと遠い先?』と言う思い?
使徒パウロを、伝道に駆り立てて行ったものの1つに、終末の考え方がありました。
“……この世の有様は過ぎ去る” (コリント第一 7:31)
キリストの再臨が接近している、と考えたためでした。
神に喜ばれる祈り、神に聞き届けられる祈りをするために、2つの注文がついています。
1.心を整える。→“健全な心を保つ”。
罪の整理をキチンとして置くこと。大切な心から罪という邪魔物を処理・処分して置くこと。
“イエスの血、すべての罪より我らを清む”
十字架のイエスの血によって、罪を赦され、罪より清められ、神に近づける心を保つこと。
“心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。” マタイ5:8
2.身を慎む。→“油断することなく”。
私たちは、油断しやすい弱さを持っています。
油断すると「自分は大丈夫」との考えから、「高慢」になったり、「怠慢」に陥ったりします。
祈りにおいて、『身を慎む』とは、
神の御前に静まり、主を待ち望むことを意味します。
“主よ。お語りください。しもべは聞いております”と言う謙虚な心が求められています。
罪とは言えなくても、祈りを妨げるものがあれば、
それを取り去る、それに支配されないようにするのも、身を慎むことに含まれます。
◇食べ過ぎて、大切な祈りの時間になると、眠くなる。→ 食べ方を工夫。
◇忙し過ぎて、祈りの時間がない。→ 時間の管理を考える! 祈りの時間の聖別しておく。
◇疲れ過ぎて、祈りの気持ちが起こらない。→ 優先順位を考え直すことも必要かも?
この時、ペテロは主イエス・キリストのゲッセマネの園での言葉を思い起こしていた?
“誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈っていなさい。
霊は燃えていても、肉は弱いのです。” マタイ26:41
今朝、神様は、ペテロを通して“万物の終わりが近づきました。ですから、
祈りのために、心を整え身を慎みなさい。”とお命じになっています。
全能の神様にお祈り出来る→ これはキリスト者にとっては恵みです。特権です。
◆1人で祈る。2人で祈る(夫婦、祈りの友)。
マタイ18:19,20
ペテロは、クリスチャン夫婦の祈りの重要さを、すでに書き記しています。
3:7“………そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。”
パウロは、男がどんなときにも、霊的な使命を果たすように、
“男たちは怒ったり言い争ったりせずに、
どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。”テモテ第一2:8
◆祈りの時間や祈りの場所、また祈りの内容の制限が全くないのも、恵みです。
いつでも、どこででも、また何でも祈れるのです。
家庭で祈る。職場で祈る。学校で祈る。教会で祈る。
歩きながら祈る。車の中で祈る。仕事をしながら祈る。真夜中でも祈る。
私たちが祈るお方は、全知全能のお方ですから、どんな事でも、大胆に祈ることができます。
◆祈りの名言の一つに、『地上で聖徒たちが祈ると、天国で非常ベルが鳴る。』
◆応答の時◆