462 聖書の神③アドナイ・イルエ(備えてくださる神)』創世記22:1~14
(1190回) 2023.09.17
今朝も、み言葉のご用をさせて戴けることを、光栄に、また、うれしく思います。
『聖書の神①エル・ロイ(顧みてくださる神)』(居場所を失い、荒野をさ迷った女奴隷ハガル)
『聖書の神②エル・シャダイ(全能の神)』(長年、霊的なスランプに陥った信仰の父アブラハム)
今朝は、第3回目として『聖書の神③アドナイ・イルエ(備えてくださる神)』について、
み言葉を学んで参りましょう。
<祈り>
創世記の22章には、
信仰の父アブラハムが、神の言葉を聞いて、約束のひとり子イサクを生け贄として捧げるという、
目を覆い、手に汗を握るような、ハラハラ、ドキドキさせられる劇的な出来事が記録されています。
画家レンブラントは、そのクライマックスの場面を見事に表現しました。
1節“これらの出来事の後、神はアブラハムを試練にあわせられた。”
信仰の父アブラハムは、実にスリルに富んだ、波瀾万丈の生涯を送って来たのです。
アブラハムは、ユーフラテス川の下流の偶像崇拝の盛んな町、ウルに住んでいました。
75才の時に、神のみ声を聴いて、そのウルの町を後にして、未知の約束の地に向ったのです。
・約束の地に着いても飢饉の為に住むことが出来ず、エジプトへ避難しなければならなかった。
・甥ロトの羊飼いとの間にトラブルが起こり、進んで困難な場所に移動することもあった。
・妻サラと女奴隷ハガルの間に生じた嫉妬やいじめによって、苦しい舵取をすることもあった。
・神の約束を待てずに、不信仰の罪を犯しために、長くて苦しい神との断絶も経験しました。
13年に及ぶ霊的スランプの期間を過ごしたのです。
アブラハムは、初めて神の声を聴いてから、この時までの40年近く、
住まいや食べ物、仕事と言った生活の問題に苦しみ、また
対人関係や家庭問題でも涙することもあり、自分の罪に悩み苦しむこともあったのです。
◆信仰→ 未知の世界への冒険であり、困難や試練との戦いの連続とも言えます。しかし必ず報われます。
彼は、数々の試練の荒野を通り、涙の谷を渡ったのです。
晩年になって、やっと経済的にも、精神的にも安定し、一カ所に定住し、
平安で幸せな家庭生活・老後の生活を送っていたのです。そのころの事です。
1節。“神はアブラハムを試練にあわせられた。”のです。
神は、アブラハムの信仰を確かめようと、はっきりした目的をもって彼を試みられたのです。
アブラハムは、神の呼びかけに非常に従順でした。
神が『アブラハムよ』と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります。」→
「何なりとおっしゃって下さい。お言葉に従う用意が出来ております。」との信仰の応答です。
◆モーセもサムエルも、神のみ声に対して『はい、ここにおります。』と答えています。
2節。神はアブラハムに、辛く従いにくい命令を与えられました。
耳を疑いたくなるような命令、身震いするほど恐ろしい命令でした。
“あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを………全焼のささげ物として献げなさい”
イサクは、アブラハムが年を取ってから与えられた約束のひとり子。世継ぎでした。
アブラハムは、自分の分身であるイサクを、目に入れても痛くないほど愛しておりました。
その上に、イサクを通して、全世界の人々が祝福を受けると約束されていたのです。
アブラハムはイサクの誕生を喜び、その成長をどんなに楽しみ、期待していたことでしょう。
しかし、神は彼に、“あなたが愛しているひとり子イサクを……捧げなさい”と言われました。
しかも“全焼のいけにえとして”→ 殺して、焼き尽くせ。と。
なんとむごい命令!なんと矛盾した命令!→ その子がいないと約束は無効になってしまう!
アブラハムの心理的な描写はありません。
父親として、当然ながら悩み苦しんだことでしょう。「なぜ……? どうして……?」と。
しかし、信仰によって、決断し、彼はすぐに行動したのです。→
3節“翌朝早く、………”
アブラハムは悩まず、ためらわずに、奥さんにも相談せず、神の前で信仰によって決断したようです。
ヘブル11:17~19(P.452)
“信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクをささげました。……
彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。”
アブラハムは、生きて働かれる神、
死者をもよみがえらせることのできる全能の神を、心から信じたのです。
その信仰のゆえに、彼は素直であり、従順であったのです。
なぜ、神様はこのような命令をなさったのでしょうか。
1節“神がアブラハムを試練にあわせられた。”→ 信仰をテストされたのです。
イサクが生まれてからは、アブラハムは神様よりもイサクの方に、気持ちが傾くことが多かった?
子宝→ 親にとって子どもは「宝」のように、愛しく、大切なものです。
“あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。”(マタイ6:21)
大きな祝福を受けたアブラハムは、祝福そのものに心を奪われ、祝福を与えて下さった神から
心が遠のおいていたようです。
そこで神は、アブラハムの信仰を、アブラハムの神への愛を、テストしようとされたのです。
アブラハムは、『イサクだけは勘弁して下さい。その代わりに、
私の時間、私の才能、私の財産、私の命なら、喜んで捧げます』とは言わなかったですね。
彼は、神の意図されたことに気づいて、ご命令の通り一番大切なものを捧げようとしたのです。
◆アブラハムは、礼拝を妨げるものから離れ、礼拝を捧げる神に、心と思いを集中させました。
礼拝を妨げる可能性のあるものを、彼は信仰によって排除しました。取り除きました。
①妻・奥さん。この箇所には、奥さんの記事が全くありません。
彼は妻に話せば、必ず反対するだろうと思ったのでしょうか。
神様の確かな言葉を聞いたので、人に相談する必要がないと思ったのかも知れません。
②若い者たち(5節)。
「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。」
私と息子とはあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る。”
アブラハムは、若者やろばから離れて、一人で神に近ずいたのです。
アブラハムの行為は、信仰抜きに考えると、全く気違いざたと思われます。
元気な若者たちは、アブラハムの行動を力ずくで、妨害することも考えられたのです。
またイサクの身代わりになると申し出る若者も起こる可能性もあったでしょう。
そうなれば、アブラハムにとり大変な誘惑になったと思います。
③ロバ。アブラハムがみ声を聴いて、三日目にモリヤの山に来るまで、
ロバは荷物の運搬に大変役立ちました。しかし
礼拝のいけにえの動物としては、相応しくなかったのです。
アブラハムは、妻にも声をかけず、若者たちやロバを山のふもとに置いて、
イサクを連れて、山頂を目指して進みます。 神に喜ばれる礼拝を捧げるためです。
◆息詰まるような会話
7節→ 息子“火と薪(たきぎ)はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこに?”
8節→ 父親“……神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ!”
父と息子は、目的の場所に着き、祭壇を築き、その上にたきぎを並べました。
その次に、父は意を決して、息子イサクを縛り、祭壇の上に乗せたのです。
14,5歳の少年イサクは、父の行動を力づくで、止めさせることも出来たのですが、
従順なイサクは、全焼のささげ物として、祭壇の上に横たわりました。
父アブラハムの振り上げた刀がまさに、イサクの上に振り下ろされようとしたその瞬間、
危機一髪のところで、神がみ使いによって、止められたのです。
11~12節
“その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。
今、わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。”
あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。”
◆レンブラントの絵画→
アブラハムが、冷静になって、目を上げると、
“見よ、一匹の雄羊が角をやぶに引っかけて、もがいている”のを見つけ、
イサクの身代わりとして、その雄羊を神に捧げたのです。
アブラハムは、モリヤの山のいけにえを捧げた場所を、「アドナイ・イルエ」と名付けたのです。
アブラハムは、感動的で、心満たされた記念すべき礼拝の場所を、
「アドナイ・イルエ」と呼んだのです。→『備えて下さる神』
◆新共同訳では「ヤーウェ・イルエ」。なぜ最初の言葉の読み方が違うのか、説明しましょう。
YHWH→ ヘブル語四つの文字(子音)で神を表した。神聖四文字と言われます。
神の名前をみだりに唱えてはならない、と戒められているので、聖書朗読のときに
ユダヤ人は、この言葉が出てくると、発音しないで、黙読する習慣になっていました。
どうしても、読む必要があれば、ユダヤ人たちは「アドナイ」(主)と読んだのです。
YHWHは、発音不明の神の固有名詞であったのです。
日本語聖書では、古くは「エホバ」と訳され、今では「ヤハウェ」とか「ヤーウェ」と
訳されています。
新改訳聖書→ ユダヤ的な伝統を重んじた訳で、
新共同訳聖書→ 最近の研究に基づく訳が採用されているのです。
◆BC2000年頃、アブラハムは、神が指定されたモリヤの山で、イサクの身代わりとして、
雄羊を捧げました。
その約1000年後、同じ場所で、ソロモン王は神殿を建てました。その神殿で長年にわたり
多くの動物のいけにえが捧げられて来ました。(歴代第二3:1)
その後、更に約1000年後、同じ場所で、即ちモリヤの山・カルバリの丘の上で、
イエス・キリストが、ただ一度で、完全な救いを私たちに与える為に、
私たちすべての罪の身代わりとして、罪なきご自分の体を十字架について下さったのです。
◆「モリヤ」→ 多くのヘブル語学者が一致して述べているように、
「イルエ」の類語であり、同じ語源を持っているのです。
「イルエ」→備える。見える。
70人訳聖書(日本語訳)→
この二つの言葉に密接な関係があるのです。
神はこの先に何が起こるか、将来のことをすべて見通しておられます。
ですから、前以て、万全の備えをすることがお出来になるのです。
◆アダムが堕落した直後から、神様は、メシヤ、即ち、イエス・キリストによる救いを
長い年月の間、何度も約束し、予告し、完全な救い・永遠の救いの準備を着々と進めて来られました。
◆神が、アブラハムに、
“あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。
今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。”
あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに捧げた。”と語られたとき、
神は、約2000年後に、実現しようとして準備しておられる事を見ておられた。
カルバリの十字架の出来事を見ておられたのです。
◆神が、このモリヤの山で、アブラハムに次のように語っておられるのではないでしょうか。
『アブラハムよ。あなたは、自分のひとり子イサクを惜しまないで、わたしに捧げた、いや、
ほふろうとした。さぞ断腸の思いをしたことだろう。
同様に、わたしは全世界の人々を愛している。彼らを罪から、永遠の刑罰から救うために、
わたしのひとり子を十字架につけようとしている。
アブラハムよ。わたしの計画とわたしの気持ちも分かるだろう。』
◆聖書の神は「アドナイ・イルエ」、「ヤーウェ・イルエ」と呼ばれています。→
イエス・キリストは、「アドナイ・イルエ」、「ヤーウェ・イルエ」なるお方です。
主イエス様は、私たちの現在の状態をすべてご存じで、将来をも『見通される神』です。
また、私たちの様々な必要に『備えて下さる神』、愛の神、赦しの神です。
◆ローマ8:32(P.310)
◆参考資料→①「70人訳聖書(セプチュウアギンタ)」
BC250年頃、アレキサンドリヤで訳されたギリシャ語の旧約聖書。
『70人訳聖書1創世記』河出書房新社。2002.10.20出版。2800円。
最初の日本語訳。 訳者→泰 剛平(はた ごうへい)
多磨美術大学教授、オックスフォード大学客員研究員。
訳例→ 創世記22:14 ヤハウエ・イルエ→“主はご覧になった”
“「(その)山で主は顕現された」”
(脚注→κυριοσ ειδεν)
②『旧約聖書1創世記』岩波書店 1997.3.5 月本昭男訳(立教大学文学部教授)
“ヤハウエ・イルエ※”(そこはヤハウエが顕現する山にある)
(※脚注→「ヤハウエは見出そう」)
【応答の時】