456 イエスの奇跡④ 「良くなりたいか」ヨハネ5:1~18 (1182回) 2023.07.02


主イエス様のなさった最初の奇跡は、カナの結婚式で、水をブドウ酒に変えられた事でした。
主イエス様は、私たちの人生を祝福し、愛と喜びに満ちたものに変えることのできるお方です!
第2の奇跡も、カナで行われ、カペナウムにいた王室の役人の息子を癒されました。
死に直面していた重病の息子が、遠隔地にもかかわらず、即刻癒されたのです。
主イエス様は、私たちの人生に起こる不幸な出来事を、すぐにでも解決して下さる神です。
今朝も、ヨハネが記したイエスの奇跡から、学びましょう。
 イエス様のみ言葉そのものから、『よくなりたいか』というタイトルをつけました。

<祈り>

 聖書の中で、奇跡は、“不思議”とか“力あるわざ”とも呼ばれています。
  ヨハネの福音書の中では“しるし”と言われています。
聖書の奇跡の記事を読むときに、その不思議さを疑ったり、感動したりしているだけでなく、
奇跡によって神が何を伝えようとしておられるのかを、知る必要があります。
弟子たちは、最初のしるしの声に聞き、奇跡の意味を理解しましたので、
 その奇跡によって、イエス様への信仰が深まりました!
“それで、弟子たちはイエスを信じた。”と記されています。
1節“その後”→ 第二の奇跡があった後です。
  イエス様によってどんな奇跡が起こり、その奇跡によって人々にどんな祝福が与えられたか、
   私たちは学び、しっかり心に留める必要があります。
  主イエス様は、祭りに参加するために、エルサレムに上られました。
   ユダヤ人は、試練に満ちた歴史の中で、神に守られ、導かれて来ました。
    ですから、過去を振り返り、祝福を豊かに与えてくださった偉大な神を礼拝し記念する
    『祭り』を大切にして来たのです。
  イエス様も、ユダヤ人の祭りを非常に重んじておられたのです。
Q.なぜ私たちは、毎週礼拝を捧げるのでしょうか? 
   それは、神との関係を大切にしないと、人との関係もうまく行かないからです。
  十戒の最初の4つは、神との縦の関係がどうあるべきなのか。
続く6つは、人との横の関係について教えています。“あなたの父と母を敬いなさい”→
 エルサレムに礼拝に上られたイエス様は、『ベテスダの池』に行かれました。
私たちは、『池』と言う言葉を聞くと、静かで美しい情景を連想することでしょう。
ところが、この『ベテスダの池』は、誰も関心を示さず、行くこともしないような場所でした。
2節→ 5つの回廊に囲まれた、その池には
さまざまな重病人や障害者を持った人たちが、大勢、ユダヤの各地から集まっていたのです。
その池の水が動いたときに、真っ先に飛び込んだ人は、
   どんな病気でも癒されると、うわさされていたからです。
  うわさがうわさを呼んで、医者から見放された人、社会から見捨てられたような気の毒な人々が、
   最後の期待をかけて、この池にたどり着き、池の水が動くのを、じ~っと待っていたのです。
ベテスダの池は、
 ・涙の絶えないところ→ 誰も彼も「孤独の涙」「後悔の涙」を流していたことでしょう。
・呻きのつきない所→ 右の人も左の人も「病苦の呻き」「絶望の呻き」の声を上げていたでしょう。
・呪いの止まない所→ 老いも若きも「自分の運命を呪ったり」「人を呪ったり」していたでしょう。
このベテスダの池は、暗くて、悲惨で、地獄の次に恐ろしいような場所でした。
主イエス様は、誰も近寄りたくない『ベテスダの池』に行かれました。
イエス様は、友なき孤独な人の友となり、助けを求めている弱い人を助けようとしておられました。
 イエス様は、憐れみ深いお方、まさに愛の人でした。
 
イエス様は、私たちの苦しみや悲しみに、心から同情し、理解し、
本当の慰めや励まし、助けを与える事のできる愛に満ちた神、私たちの救い主です。
3節“その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが
大勢、横になっていた。”
これは、今日の社会の縮図のように思います。
・病人→ 私たちは、ストレスの多い時代に生きています。
 肉体が病に蝕まれたり、心が病んでいる人は、増えています。
 どこの病院の待合室も、患者であふれています。
 ・目の見えない人→ 昔は、栄養や衛生状況が悪くて、視力障害者が多かったのでしょう。
            今は、心の盲人が増えています。
     心が、悪や罪で汚れたり、曇ったりしているので、
       神が分からないのです。
イエス様は、“心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです”(マタイ5:8)
イエス様は、パリサイ人たちに“目の見えぬ手引き”“目の見えない人たち”と呼ばれました。
  心の目が曇って神が分かりません。「自分は何のために生きているのか」と、
  人生の意味も目的も知ることができなくなります。
    毎年、この狭い日本で、自殺する人は、2万人以上もあります!
・足の不自由な人→ 聖書は、私たちの人生のコンパス・羅針盤です。
    聖書の教えを知らないと、厳しい人生の旅路の中で、どちらに進んだら良いか分からず、
     立ち往生したり、暗礁に乗り上げてしまうのです。そのような人が増えています。
・人の道を踏み外して、人生の裏街道を行く人、
・夫婦、親子の愛と信頼の絆が破れて、悲しい・辛い経験をさせられている人、
    ・様々な試練により、自信を失い、悩み・苦しんでいる人が、たくさんいます。
☆明るい希望をもって、目的地に向かって、確かな歩みをしている人は多くはいないでしょう。
・からだに麻痺のある人→ 脳梗塞で私も1週間ほど入院したことがあります。
                軽くて、麻痺が残らず、感謝しています。
このベテスダの池には、目の見えない人たちもいたとありました。
  この人たちは、誰よりも早く水の動きを捕らえるために、耳をそばだてていたことでしょう。
ですから、このベテスダの池では、互いに話し合うこともなく、助け合うこともない、
  非常に重苦しい沈黙と不安・緊張のみなぎっている所であった事でしょう。
イエスは、ベテスダの池に寄り集まっている、悩んでいる人、悲しんでいる人、苦しんでいる人たち
の中から、一人の男の人に目を止め、近づいて、声を掛けられたのです。
彼は、誰よりも気の毒な人、一番不幸な人、「生ける屍」同然の人でした。
5節には、“38年もの間、病気にかかっている人がいた。”
2000年前のこと、今より平均寿命は短かったでしょう。
38年→ 病気をするために生まれ、病気になって死ぬための一生のように感じた?
この池は、間欠泉で、時々、地下から水が、ゴボゴボと吹き出すようで、その時は、
  いつも先を越されて、長年ここで、孤独で、空しい日を過ごして来たようです。
6節“イエスは………見て、………知ると、………言われた”
  ここに記されている、イエス様の3つの愛の動作は、非常に大切です。
①見る→“イエスは彼が横になっているのを見て……”
その病人は、座る元気もなかったのでしょう。
       がっかりし、ぐったりして、生ける屍のように横たわっていたことでしょう。
イエス様は、その病人に目を止められたのです。

  ◆イエス様は、愛に満ちた、慈しみ深いお方ですから、
    私たちを一人一人に、心をかけ、目を止めて下さるのです。
    “わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。”
           (イザヤ43:4)
②知る→“すでに長い間そうしていることを知ると………”
イエス様は、彼の長年の苦しみ、不安、孤独を、一つ一つご存じでした。
    ◆イエス様は、神ご自身ですから、
      私たちの過去の事も、現在の不安や悩みも、ありのまま知っていて下さるのです。
 “恐れるな。………わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
  あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、
  川をわたるときも、あなたは押し流されない。
  火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。”
                            (イザヤ43:1~2)
水の中を通るような、不安な時も
川をわたるような、危険なときも
火の中を歩くような、厳しい試練の時にも、
    主イエス様は、私たちをよく知って、同情し、助けようと歩みよって下さるのです。
③言われた。“良くなりたいか”
この病人は、イエス様の言葉を聞いて、びっくりした事でしょう。
  普段は、誰からも声を掛けられず、孤独でしたから。
“良くなりたいか”との問いかけに、素直に答えられなかったかも……。だからと言って、
『人を馬鹿にするな。良くなりたいのは当たり前だ』と反発する気力もなかったのでしょう。
 『私には、チャンスが来ない。池の中に誰も入れてはくれない』と泣き言を言っていたかも。

 ◆ドイツの鉄血首相と呼ばれたビスマルクが、病気になった時、
お抱えの医者が病床に呼び付けられました。
  『閣下、どのようにお悪いのですか?』『熱は?』………ビスマルクは黙り込んでいました。
その医者は、終に『私で間に合いませんでしたら、獣医でもお呼びになっては?』と言ったそう。

 ◆憐れみ深いイエス様は、素直になれない、この病人の泣き言の裏にある、
    声にならない心の願いを読み取られました。そして、その病人に、
『起きて床を取り上げ、歩きなさい』と命じられたのです。

◆彼が、イエス様の命令に、疑わず、ためらわずに動き出した瞬間に、奇跡が起こったのです。
神への信仰が、私たちに奇跡をもたらすのです。
 “イエスは………見て、………知って、………言われる”のです。
イエス様は、私に目を止めて下さる。私のことを良く知って下さる。そして
“よくなりたいか”と声を掛けて下さるお方です。
この奇跡は安息日になされたので、ユダヤ人との間に、論争が起こりました。
主イエス様は、この人に気を掛けて、励まと警告を与えておられます。
14節→“見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。
      そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。”

◆イエス様は、罪を赦し、病をも癒される、まことの神、まことの救い主です。
  イエス様の十字架の死によって、罪を赦された私たちは、
救いの恵みを、いつも思い起こして、感謝しつつ歩みましょう。
   また、罪を犯さないように、み言葉に聞き、神を恐れて、歩み続けましょう。


【応答の時】





































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