419 「パウロの人生観・生きることはキリスト」 ピリピ1:19~26 (1176回) 
                                   2022.05.01
◆詩篇90篇は、その標題に「神の人モーセの祈り」とある有名な詩篇です。
その詩篇90篇には「永遠の神」と「人生のはかなさ」「人生の短さ」が対比して記されています。
 3~12節には、このように記されています。
“朝には 草のように消えています。
 朝、花を咲かせても、移ろい、
 夕べには しおれて枯れます。
 ……………
 私たちは 自分の齢を一息のように終わらせます。
 ……………
 瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。
 どうか教えてください。自分の日を数えることを。
 そうして私たちに、知恵の心を得させてください。” 詩篇90:3~12
使徒パウロは、短い人生にもかかわらず、非常に実りの多い、確かな人生を送りました。
パウロは、訪れる機会や自分の経験を、生かして用いる人でした。
  聖書のみ言葉によって正しい判断を下して、前向きに考え、ひたすら前進する人でした。
今朝は、パウロが書き送ったピリピ書1章21節のみことばから、
 「パウロの人生観・生きることはキリスト」というタイトルをつけました。
<祈り>
このピリピ人への手紙には「投獄」とか「死」と言う、ただならぬ言葉が記されているにも関わらず、
不安や暗い悲壮感はなく、むしろ明るい雰囲気が漂っている手紙です。
それは、使徒パウロが、投獄・苦難・殉教と言う試練のただ中でも、
 信仰によって、その厳しい現実・試練に、すでに打ち勝って勝利していたからです。
孔子は「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と言いました。
  「道」→ 私たちの人生で、最も大切な真理→ 死と死後のこと。永遠に関わる真理。
釈迦は「我、いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」と言いました。
「私は、いまだに生きることを知らないのに、どうして死について知ることができようか」。
孔子も釈迦も、自分に正直な人たち・謙遜な人たちですね。
21節。“私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。”
 何と、確信に満ちた、大胆な言葉でしょう。
◆パウロは、復活のキリストに出会って、新しい生き方を見い出したのです。
彼は、キリストによって生まれ変わり、「生きる道」を見つけ、また「生きる尊さ」を知ったのです。
 “私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。”と、迷うことなく、きっぱりと語りました。
“私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。” これは、パウロの信仰告白です。
   彼の人生のモットーであり、彼の人生観のエッセンスとも言える言葉ですね。
イェス様にお会いするまでのパウロの人生観、彼の古い人生観は、
「生きることは己であり、死ぬことは損だ。」と言えます。
  ・生きることは、自分のため、自分の幸せ、自分の名誉のためである。
  ・死ぬことは、空しく、恐ろしく、嫌で、損である と言えます。
使徒パウロは、孔子が求めた「道」、釈迦が探求した「命」を、
 イエス・キリストの中に発見したので、実り豊かな・大胆な人生を送ることができたのです。
使徒パウロはイエス様のことばによって、感動し、確信を持ったことでしょう。
“わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。”
  (ヨハネ11:25)
“わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。” (ヨハネ14:6)
“生きることはキリスト”と言えたのは、
  パウロの命が、キリストの復活の命と、しっかりと結び付いていたからです。
彼は、キリストを喜ばせ、キリストの栄光を表すことに、命を掛けていたからです。
“生きることはキリスト”とは、パウロにとっては、
「寝ても覚めてもキリスト!」
「朝も昼も晩もキリスト!」
「キリストなしに、自分は一日も生きて行けない!」といった心境でしょう。
“生きることはキリスト”と、きっぱりと断言し、宣言したパウロの心の内を、
              さらに良く伝えてくれる言葉があります。
教会の迫害者サウロが、伝道者パウロに変えられたのは、彼の上に
復活キリストが、ご自身を現されたからです。そして、
キリストによる「赦しの愛」を知り、キリストによる「永遠の救い」を体験したからです。
パウロは、キリストによって価値観や人生観が、180度、ガラッと変えられたのです。
20節“……生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。”
パウロは、寝ても覚めても、元気であって疲れていても、順境の日も逆境の日も、
  心に中心にあったのは、イエス様だけです。
 パウロは十字架だけを誇りとし、イエス様一点張りの生活でした。
  イエス様にほれ込み、イエス様と共に死ぬことさえ願ったのです。
“キリストがあがめられる”→ ギリシャ語では、 “キリストを拡大する”
μεγαλυνω → magnify(拡大する)→ あがめる。尊ぶ。すばらしさが現わされる。
マリヤの賛歌(ルカ1:46~56)→ マグニフィーカート(ラテン語)
マリヤは自分の身に起こったことで、神を拡大しました。
            想像を絶する偉大な神に接し、その神様を心の底から崇めました。
☆虫メガネで、小さな「アリ」をのぞくと、まるで「コオロギ」のように見えます。
☆顕微鏡で、雪を見ると、見事にデザインされた雪の結晶に驚くことでしょう。
札幌に「雪の博物館」があり、様々な雪の結晶が写真で展示されています。
☆望遠鏡を反対側から覗くと、物は小さく見えるように、私たちは不信仰によって、
イエス様を小さくしてはいないでしょうか。
随分前ですが、クリスチャンへの啓蒙のために『あなたの神は小さすぎる」という本が出版されました。
◎私たちが信仰の目で聖書を読み、信仰のレンズを通して、イエス様を拡大して見上げると、
イエス様の素晴らしさが、さらに良く分かり、圧倒されることでしょう!
◎私たちが、日々の生活で、仕事に忙しすぎたり、余暇を楽しむのに忙しすぎたりすると、
イエス様の素晴らしさが分からなくなってしまうのです。
イエス様を見失ったり、イエス様を小さくしたり、イエス様を心の隅っこに追いやってしまいます。
「忙」(いそがしい)=「心」+「亡」(ほろぼす)
パウロはどのようにして、キリストがあがめられるようにしたのでしょうか?  
20節“……どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、…………”
パウロは、人からきびしく非難されようとも、また激しく攻撃されようとも、
メンツ丸つぶれであろうとも、
裁判にかけられ、投獄されようとも、恥じる事なく、イエス様を大胆に伝えました。
  彼にとって、“生きることはキリスト、死ぬことは益”だからです。
“恥じる”
1世紀の初代キリスト信者は、少数派でした。周りの人から異質な存在と思われていました。
  ☆イエス様のみ言葉、マルコ8:38 → 
   “だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、
    人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。” 
  ☆パウロの言葉、ローマ1:16→
   “私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、
    信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
◆私たちの国では、未だにクリスチャンは少数派です。信仰を証しする場にあって、
 「恥ずかしい」と言う片身の狭い感情が起ることがあるでしょう。
   信仰によって、その感情に勝利する必要があります。
・日曜日、道で会った人が「どこへお出掛け?」→ 言葉を濁して「ちょっとそこまで」と………?
 胸を張って「教会へ、礼拝を捧げに………」!
・救われて間もなく、伝道熱心な宣教師に勧められて、自宅のすぐ近くの会館で「伝道会」をしました。
生まれ育って20年も住んでいる自宅の周辺に、チラシを配ったり、メガホンをもって宣伝しました。
  最初は、ものすごく抵抗を感じました。友だちやよく知っている近所の人の顔を恐れたからです。
心に葛藤がありましたが、信仰によって、その感情に打ち勝つことができました。
   集まったのは6,7人。その内の一人の青年が、救われ、今は牧師となり、活躍しています。
もう一人の姉妹は、教会に導かれました。
パウロは、自分を“罪人のかしら”、“キリストのしもべ・奴隷”と呼んだのですが、
自分を通して“キリストがあがめられる”ために、大胆にイエス・キリストを伝えました。
  彼は、土の器のような自分の体を通して、キリストの栄光が輝き出ることを願いました。
  聖い神は、私たちをそのままでは用いる事ができません。
どんなに能力・才能・賜物があっても、また神に役立ちたいとの熱い志があっても、
  生まれつきのままの状態では、神は私たちを用いることができないのです。
聖い神は、聖い器しか、お使いになれないのです。
パウロは、罪人のかしら、教会の敵・教会の迫害者でしたが、
キリストを心に迎え、十字架の血によって罪を赦され、清められたので、神に用いられました!
私たちも、キリストの十字架による救いを受けたのであれば、神のご用に役立つ者とされます。
使徒パウロのように
   “……私の身によって、キリストがあがめめれる”ことを求めましょう。
救われた私たちの思いや感情、言葉が、キリストをあがめる道具となるように、また
 私たちの才能や賜物、手足の行動が、キリストをあがめるように心掛けましょう。
◆私たちは、「世の光」「地の塩」とされています。
罪のもたらす暗闇が、ますます濃くなっている今日、「光」が必要です。
罪による腐敗が益々広がっている今日、「塩」が必要です。
光も塩も、自分を犠牲にして、初めて役立つのです。
ランプは、灯油を吸い上げた・その芯を燃やしながら、光を放ちます。
塩は、白い美しい姿を、溶かし小さくして、回りに働きかけるのです。
光も塩も、自分を無にすることにより、静かに、確実に、周囲に良い影響を与えるのです。
22節以下で、使徒パウロは、自分は今、生と死の「板挟み」の状態であると述べています。
「生と死」のどちらかを選べるとしたら、選択に困ってしまうと言うのです。
  自分の本心は、“世を去ってキリストとともにいることです。
          そのほうが、はるかに望ましいのです”と語ります。
彼は、殉教の死を覚悟した上で、私が生かされておれば、
   “あなたがたの信仰の前進と喜び”(25節)になると、述べています。
  “前進”→ 12節の“前進”と同じ軍隊用語で、繰り返して用いています。
パウロは、自分をキリストの兵士に見立てて、
 ローマの軍隊が、地中海世界に、その領土を広げている以上に、
キリストの軍隊が、全世界に福音を広げ、福音を“前進”させている事を喜びました。
  そして彼はピリピの兄弟姉妹の信仰が強くされ、
   十字架の福音が、力強く全世界に向かって“前進”することを願ったのです。
私たちも、使徒パウロのように、キリストの兵士として、
  ◆どんな場合にも、大胆に福音を語り、
  ◆また自分を無にすることにより、“キリストがあがめられる”ように、
    キリストが更に大きく拡大され、更に多くの人々に知られ、あがめられるように、
    祈り、また心掛けて行きましょう!!

【応答の時】
























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