392「あなたの信仰があなたを救ったのです」(1145回)マルコ10:46~52 2021.03.14
お早うございます。
教会の花壇に植えている、スズラン水仙が一輪咲き、水仙の黄色のつぼみが膨らみ、
紫蘭の若葉も顔を出し始めています。 春を感じさせてくれます。
開拓伝道を始めて15,6年経った頃から、教会堂の必要が起こり、具体的に祈り始めました。
・教会の野外活動のために、公園近くに → 応えられました。
・願わなかったのに → 3階建ての大きな会堂、駐車場付き、花壇付き。なんという恵み!
住宅が密集するこの辺りでは、花壇は人目につき、そばを通る人々心を和ませてくれます。
今日も会堂に集まり、コロナの感染予防に工夫しながら、礼拝できますことを、イエス様に感謝します。
<祈り>
イエス様は、エルサレムへ向かって、最後の旅を続けておられました。
今朝、ご一緒に、エルサレムの近くのエリコで起こった、素晴らしい出来事を学びたく思います。
私たちも、片道切符の旅を続けています。イエス様にお従い続けると、
不思議な事、素晴らしい出来事を体験させていただけます。
46節→ “一行はエリコに着いた。………エリコを出て行かれると、……”
イエス様の一行は、エリコを通過されました。
エリコは、ヨルダン川の西側にある都市、昔ヨシュアによって滅ぼされたことがあります。
イエス様のおられた頃は、高級住宅が立ち並ぶベッドタウン、リゾート都市でありました。
水の枯れない泉があるオアシスです。人々が行き交う都市でした。
金持ちの取税人であるザアカイも住んでいました。
有名な『良きサマリヤ人』の話からも分かるように、
エリコには、商人たちやエルサレムの神殿に勤務する祭司やレビ人たちも住んでいました。
「イエス様が来られた」と人々がうわさを聞いて、人々が集まって来ました。
エリコの町の人々の反応はありません。“……多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると”。
イエス様は、この町で教えることも奇跡もなさらずに、ただ通過されただけです。
エリコ出られると、目の見えない物乞いのバルティマイがイエス様に、
熱心に、必死に憐れみ・救いを求めたのです。
バルテマイがどんな人かを考えて見ましょう。
1.彼の名前の中に、彼の不幸な過去が隠されているようです。
彼には、普通の人のように、自分固有の名前がつけられていなかったのです。
バルティマイ→“バル”とは子供を意味します。
“ティマイの子のバルティマイ”と、父親の名前しか分からないのです。
◇「バル」と言う言葉の用い方が、主に3つあります。
①区別:例えば「主は聞かれた」を意味する「シモン」はありふれた名前でした。
ペテロはバルヨナ・シモン。 他のシモンと区別するために、ヨナの子シモン。
②愛称:バルサバ→「安息日の子」(礼拝を忠実に守る信仰の篤い人)→ ニックネーム
バルサバと呼ばれるヨセフ→ 使徒補欠選挙の候補の一人(使徒1:23)
バルサバと呼ばれるユダ→ エルサレム教会のリーダーの一人(使徒15:22)
バルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフ。使徒4:36。
慰めの子とは、人を思いやり、人を慰め・励ます愛情の深い人。
③自称:バルイエス(使徒13:6)→「イエスの子」「救いの子」→ 自己宣伝するための自称。
◆戦国時代に士農工商という身分制度→ 武士以外は苗字帯刀が許されませんでした。→
江戸時代に名を残した「国定忠次」→ 国定(村の)忠次。
“バルティマイ”→ 他の人と区別するためでもなく、愛称・ニックネームでも、
親譲りの名前でもありません。
彼は、生まれつきの盲人であった可能性があります。
親は、彼に愛情を注げず、彼に期待を寄せることもできなかったようです。
彼は、親から名前を付けてもらえなかったようです。
人々から、ティマイの子・バルテイマイと呼ばれただけです。
2.“目の見えない物乞い”(46節)
バルテマイは、親の愛を知らず、心に傷・トラウマを受けていたと思われます。
また、視覚障害のハンディを背負っいて、社会から取り残されそうな人。
人々から物乞いして生き抜いてきた気の毒な人でした。
一筋の光も差し込まない、真っ暗闇に包まれた日々の生活は、想像するのは難しくないですね。
神様の造られた美しい自然の世界を見ることも、人々の優しい笑顔を見ることもできなません。
目が見えないために、仕事もできないので、道端に座り、ほこりにまみれて、
物乞いをしなければならなかったのです。
バルティマイは、毎日毎日、闇と戦い、孤独と戦い、厳しい生活と戦わねばならなかったのです。
彼は、ただ目が見えなかっただけではありません。
その心の中にまで闇が入り込み、先が読めない暗闇におおわれた日々を過ごしていたでしょう。
・ 親に対する憎しみや怒りもあったでしょう。
・ 劣等感にさいなまれ、空しさに打ちのめされ、不安と戦わなければならなかったのです。
しかし、バルテマイは孤独で、悲しい過去を引きずりながら、必死で生き抜こうとしていたのです。
私たちは、バルティマイと比較すれば「不幸」と言う言葉を口に出せなくなるのではないでしょうか。
バルティマイが、ひそかに待ち望んでいた、幸せになるチャンスがやっと訪れたのです。
しかも、この機会を逃すと二度と巡って来ない最後のチャンスです。
なぜなら、イエス様がエルサレムへと最後の旅を進め、その旅も終わりに近かったからです。
バルティマイは盲人で、光に反応できませんでしたが、音には人一倍、敏感のようでした。
いつものように物乞いしている時、周りが異常に騒がしいのに気づいて、好奇心にかられました。
◆ルカ18:35には、“彼は群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事かと尋ねた。”。
47節。バルティマイは恥も外聞も捨て、
“ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。”のです。
48節。群衆は、バルティマイを黙らせようと、彼をたしなめました。
『うるさい! 黙れ! 先生は、お前など相手にしている暇がないんだ。 静かにしろ!』と。
バルティマイは、反対されればされるほど、ますます大声を張り上げて、
“ダビデの子よ。私をあわれんでください。”と叫んだのです。
ここに、私たちが罪を赦されて、ほんとうの幸せな人生を送るための、3つのステップがあります。
1.求めること。 2.捨てること。(50) 3.イエスのもとに行く。
キリストを求めること、真剣に、熱心に求めることです。
人が何と思うとも、友がどんなに反対しても、キリストを求めることが、
神の憐れみを受け・救いを受ける第一歩です。
バルティマイが、なぜこんなに一生懸命に“あわれみ”を求めたのでしょうか。
47節に“イエスがおられると聞いて……”
彼は、すでにイエス様のうわさを聞いていたのです。
イエス様は、さまざまな病を癒されたこと。悪霊を追放されたこと。死人を何人も甦らせたこと。
また、自分と同じ盲人を奇跡的に癒されたことも、うわさで聞いていました。
バルティマイは、イエス様こそ、自分たちが長年待ち望んで来たメシヤだと信じていたでしょう。
だから彼は、イエス様のことを聞いて、アクションを起こした・行動に出たのです。
熱心に、激しく、憐れみを・救いを求めたのです。
バルティマイと対照的に、エリコの住民は、イエス様に無関心でした。
エリコには、祭司やレビ人などの宗教家たち、ザアカイなどの金持ちたちも住んでいたのですが、
救いとか永遠の世界に関しては、とんと関心がなかったのです。 今の時代も同じだですね。
エリコの住民は、イエス様と直接お目にかかれるまたとないチャンスを失ったのです。
◆神様は、預言者イザヤを通して、語っておられます。
“主を求めよ。お会いできる間に。
呼び求めよ。近くにおられるうちに、………
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。
私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。” イザヤ55:6,7
◆60年ほど前、神学生の頃のこと。
ラジオの福音放送を聞かれた方が、教会に紹介されました。
宣教師と一緒に、その方の家を訪問しましたが、留守がちで中々お会いできなかったのです。
しばらく期間をおいて出かけると、家族の方から「本人は、先日死にました。」と聞かされ、
「遅かった、間に合わなかった」と、ガックリ肩を落として帰ったことがありました。
◆40年数年前、大阪の平野区で牧会していた頃のこと。
三浦綾子さん原作の『塩狩峠』の映画会を、
教会の近くに完成した『区民ホール』で行ったことがあります。
人々の反応が良く、400人ほどの入場者がありました。上映中に、爆竹による妨害もありましたが、
大盛況でした。1教会の、1回の伝道会で、400人が集まったのには、驚きました。
アンケートの中に「私は、仏教〇〇宗の信者ですが、大変感動を受けました」とありました。
しばらく経って、新聞を読んでいると、マンションからの飛び降り自殺の記事が目に付いたのです。
見覚えのある名前が記されていたので、アンケートを調べると、同じ人でした。
この時も「遅かった、間に合わなかった」と、心に痛みを覚えました。
私たちにとり、『遅かった、間に合わなかった』と後悔することがないように、
バルティマイのように、熱心に・真剣に、神の救い・神の憐れみを求めようではありませんか。
バルテマイの必死の叫びを聞かれたイエス様は、立ち止まって、
“あの人を呼んで来なさい”と語られました(49節)。
イエス様は、彼が盲人であるのをご存じでしたが、ご自分で出向いて行かれませんでした。
彼が本気で求めているのかテストするためだったのでしょうか、
“あの人を呼んで来なさい”と言われました。
“心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる”と
聞いたバルテマイは、どうしたのでしょうか。
50節“……上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来た。”
2.捨てること。(50)
“上着を脱ぎ捨て”→ 上着は、バルテマイにとり大切な衣類でした。
彼が住む家のない物乞い・乞食であれば、ただ一着の上着が、
夜にはフトン代わりになり、寒さから体を守ってくれたでしょう。
なぜ、それを脱ぎ捨てたのでしょうか?
早くイエス様の下に行くのには、足に纏い付いて邪魔になったからでしょう。
私たちにとって、イエス様の下に行くのを妨げているものは、何でしょうか。
あなたにとって、脱ぎ捨てるべき上着とは、何でしょうか。
高慢、偏見、自己中心な考え、古くて悪い習慣、さまざまな欲望の上着………?
脱ぎ捨てるべきものを、すべてひっくるめて『罪・とが』と言うことができるのでは?
◆イザヤ59:1,2
“見よ。主の御手が短くて救えないのではない。
その耳が遠くて聞こえないのではない。
むしろ、あなたがたの咎が、
あなたがたとあなたがたの神との仕切りとなり、
あなたがたの罪が御顔を隠させ、
聞いてくださらないようにしたのだ。”
“上着を脱ぎ捨てる”とは、私たちにとって、『罪を悔い改める』ことを意味しています。
3.イエスのもとに行く。
バルティマイ→“踊り上がって、イエスのところに来た。” バルテマイの信仰が示されています。
イエス様は、バルティマイに“わたしに何をしてほしいのですか”と尋ねられました。
この盲人が何を求めているのか誰にでも明らかでした。それにも関わらず、
イエス様が問いかけられたのは、バルティマイがいったい何を求めているのか。
彼の願い、彼の信仰を明らかにさせるためでした。
“わたしに何をしてほしいのですか”
この問いかけは、イエス様しかできない質問ですね。
『あなたが望むものは、何でもしてあげましょう』と言う意味が込められている質問です。
今、イエス様が“わたしに何をしてほしいのですか”と、私たち一人一人に尋ねておられます。
「私の心の目を開いて下さい。神様をもっと深く理解し、永遠の天の御国に行かせて下さい」
「私の心の中に潜む醜い罪を取り除き、私の心を清めて下さい」
「私に生きる目的、生きる希望を与えて下さい」
「私の信仰を強めて下さい」「私に祈りの力を体験させて下さい」と祈るでしょうか?
バルティマイは、素直に、はっきりと、イエス様に
“先生。目が見えるようにしてください”と願いました。
イエス様は“さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。”と、
信仰の重要性を語られました。
信仰とは、イエス様を信頼して、イエス様の指示・指図に従うことです。
その時に、神の力が表され、奇跡が起こるのです
◆暗唱聖句になっている、ヘブル11:1に、
“信仰は、望んでいることを保証し、
目に見えないものを確信させるものです。”
◆バルテマイが、幸せになった3つのステップがありました。3つの『動詞』で示されていました。
1.“叫んだ”→ 熱心に、真剣に『求めた』
2.“上着を脱ぎ捨てた”→ 神に近づくのを妨げるものを捨てること、『悔い改めた』
3.“イエスのところに来た”“イエスについて行った”→『行いの伴った信仰を持った』
【応答の時】 “信仰は、望んでいることを保証し、
目に見えないものを確信させるものです。”