388「子どもと神の国」(1141回) マルコ10:13~16 2021.02.14
お早うございます。
5月5日は「こどもの日」の祝日です。祝日法の2条には「こどもの人権を重んじ、こどもの
幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことが趣旨であると明記されています。
ところが、かなしいことに、この日本で、こどもの虐待やいじめが増加しています。
祝日ではないですが、
5月第2日曜日は、「母の日」です。
6月第3日曜日は、「父の日」です。この2つも祝日にして、家庭の結束を計る必要があります。
7月第4日曜日は、「親子の日」と提案し、活動を進めている人がいます。
アメリカの写真家ブルース・オズボーン(Bruce Osborn)さんが、2003年から取り組みました。
親子の絆で結ばれた様々な家庭が組合わさって、社会が成り立っていますので、
少なくとも一年に一度は、親子の絆を強く意識する「親子の日」があってもいいなと思います。
今朝のメッセージタイトルを「子どもと神の国」としました。
この箇所で、イエス様は、私たちにとって非常に大切な真理を話されました。
<祈り>
人類最初のアダムとエバの家庭は、妬みによって兄が弟を殺害すると言う痛ましい事件によって、
親子の絆が無残にも断ち切られ、大切な家庭が早くも崩壊しました。神に背を向けた罪が原因でした。
それ以来、人間の歴史の中で、家庭悲劇が繰り返されています。
夫婦の絆は切れて元の他人に戻ることがあっても、
親子の絆はしっかり結ばれて、解消不可能な永続するはずのものです。
使徒パウロは、ローマ1:28~32の中で、
2000年前のローマの社会に広がる悪を21も記録していますが、
その中に“親に逆らい”と記しています。(P.298)
またパウロは、青年牧師テモテに、年配の兄姉ややもめに対する牧会的配慮として、
“……自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばさせなさい。
それが神の御前に喜ばれることです。”と書き送りました(テモテ第一5:4)。
これらの神のみ言葉に接すると、毎日が「母の日」「父の日」「親子の日」であって欲しいですね。
イエス様の周りには、多くの人々が集まっていました。
その中には、好感を抱く者がいるかと思うと、敵意をあらわに示す者もいました。
真面目な求道者もいるし、イエス様をワナに掛けようとする者もいました。
大部分の人々は、それぞれ大きな問題を抱えていました。
今朝の箇所のすぐ前の箇所には、悲しみや苦しみ、痛みの伴った複雑な、デリケートな問題を含む
「離婚」について取り上げられています。
人々が、重苦しい雰囲気を切り替えて、明るい話題にしようと、
子どもたちをイエス様のみもとに連れて来たようです。
13節“さて”→ マタイは“そのとき”→ 現場にいたマタイの表現の方が、
状況が良く分かる気がします。
ある人たちが過去よりも将来に目を向けようと、イエス様のみもとに子どもたちを連れて来ました。
親たちが自分の子どもの健全な成長と幸せな将来のために、神の祝福を求めてやって来たのです。
“子どもたち”→ 英語の聖書では、“little children”、“little child”と記されています。
ここでは、ごく日常的な、和やかな、ほほえましい情景が目に浮かびます。
ところが、弟子たちは目の前の出来事を喜ばずに、“彼らを叱った”と記されています。
・忙しい先生を、小さなことで煩わさないで欲しいと言う気持ちの表れでしょうか?
・周りの大人が大変な問題を抱えている中で、子供のことは後回しにしなさいとの考えがあったのか?
14節“イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。”イエス様の激しい感情が記されています。
このときのイエス様は、エルサレムに向かって最後の旅をしておられました。
イエス様の心を占めていたのは、これまで何度も予告しておられた十字架の出来事であったでしょう。
また、ご自分が世を去った後のために、
弟子たちの訓練も急がなければならないと、危機意識をもって重要な時を過ごしておられたでしょう。
そんな多忙なイエス様なのに、
“子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。
神の国はこのような者たちのものなのです。”と言われたのです。
◆イエス様のお心は、何と広く、豊かなことでしょう。
愛に満ちあふれた暖かい人間性が表れています。また、
人を思いやることのできる人情味のある人柄がキラッと光る出来事ですね。
それに対して、弟子たちは、自己中心で狭い心しか持ち合わせていないようです。
◆少し前に、弟子たちはイエス様の名前を無断で使って悪霊を追い出している者を見つけ、
“やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったすらです。”と
手柄を立てたかのように錯覚し、イエス様に報告したことがありました。(9:38)
そのときイエス様は“わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。」と教えられました。
その後も、弟子たちは、まだイエス様の求めておられる寛大さを学んではいなかったのです。
◆弟子たちばかり非難できないですね。私たちの場合も同じです。
毎日、毎週、良い教えを聞いているのですが、心の中から罪深さが顔を出すのではないでしょうか?
◆ペテロ以外の弟子たちは、結婚していなかったので、
子を持つ親の気持ちや子供の心も分からなかったのは、当然と言えるかも知れません。
◆イエス様はご自分に迫る危機的な出来事のため、不安と緊張が高まる中なのに、
小さな子供たちの幸せを願って、喜んで時間を用いておられます。
イエス様は、何と大きな愛とゆとりを持っておられることでしょう。
16節“そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。”
イエス様は、子どもたちに、優しくニコッとほほ笑まれ、歩み寄られたのでは?
イエス様の優しさ、ゆとり、明るさが、子供たちの心に安心感を与えたことでしょう。
◆10数年も前の春のこと。今頃です。
マンションの玄関近くで、後ろから追いかけて来るような足音がしたかと思うと、
見知らぬ男の子が私に声を掛けて来ました。
「おじさん、僕今日、卒業式やってん。今度中学生になるんやけど、迷ってんねん。
帝塚山と同志社ともう一つ迷ってんねん。」
「同志社はキリスト教の学校で、とてもいいよ。おじさんは牧師やで。」
歩きながら2,3分の子供と話し合いでしたが、心が洗われるような思いをしました。
◎イエス様は、子どもを愛し、子どもに優しく近づかれるお方です。
子どももイエス様が大好きなようでした。
“子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。
神の国はこのような者たちのものです。”と言われたのです。
◆私たちは、子どもがイエス様の下に行くのを妨げてはいないでしょうか。
私たち大人が、子どもから大切なことを学ぶ必要がありはしないでしょうか。
◆子どもから、次の4つの事を学ぶことができます。
1.子どもの素直さ・従順さ
15節“子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。”
子どもは疑うことをしません。
ですから、親は愛情をもって幼いときから仕付け、指導することが大切なんですね。
箴言22:6
“若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”
箴言22:15
“愚かさは子どもの心に絡み付いている。懲らしめのむちがこれを子どもから遠ざける。”
よく言われる「三つ子の魂百まで」は、真実を伝えています。
◆イスラエルの霊的暗黒時代のことを、次のように記されています(士師21:25)。
“そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。”
神は、祭司や預言者にではなく、真夜中、神殿で寝ている少年サムエルに声をかけられました。
“サムエルよ、サムエルよ”と。 彼は“主よ。お話しください。しもべは聞いております。”と。
心身ともに成長し、神に用いられたサムエルは、
“主の御声に聞き従うことほどに、喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり
耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。”(サムエル第一 15:22)と教えました。
2.子どもの信頼する心・依頼心は大きい。
子どもは、本能的に自分の無知と無力さを知っているのでしょう。
ですから、自分の親には、100%信頼する賜物を備えています。
近年、親がわが子の信頼を裏切るケースが増えています。児童虐待が後をたちません。
◇10年ほど前の新聞の記事に、しつけの一つとして、子どもを洗濯機に入れて回したと。
私は腹が立って「自分の心を洗濯機に入れろ!」と心に叫んだこともありました。
◆イスラエルがペリシテと厳しい戦いをしていたとき、
兵士たちは、敵の挑戦におびえていましたが、神を100%信頼した少年ダビデが、
大胆にも強敵に近づき、石投げを用いて巨人ゴリアテを倒し、
イスラエルに輝かしい勝利をもたらしたのです。
3.子どもの好奇心は旺盛。
3,4才の子供は「クェスチョン・ボックス」と言われるように「なぜ?、どうして?」を連発し、
納得の行くまで尋ねる傾向があります。
子どもには、大人のような曖昧な、中途半端な、また冷めた心はありません。
子どもは興味のあるものには、夢中になり、熱心に物事を追求します。
私たちは、聖書の真理に対して、子どものように好奇心をいだき、
熱心に真理を求める心が求められています!
◆昔、イスラエルで捕虜となり、バビロンにつれ去られたダニエルと3人の少年たちは、
異邦人の王宮で、3年間の特訓を受けさせられました。
彼らは偶像に捧げた御馳走で身を汚さないよう努力しました。
“神はこの四人の少年に、知識とあらゆる文学を理解する力と、知恵を授けられた”ダニエル1:17
子供には、
1.素直な心・従順な心
2.信頼する心
3.好奇心
子どもは、前向きに、夢をもって将来に向かって生きています。それに対して、
大人は、歩んで来た過去に支配されたり執着しやいのです。
小さな子供が、前途を悲観して自殺した、と言うことは殆ど聞きません。
イエス様は、今朝、私たちにも、
“子どものように神の国を受け入れるものでなければ、
決してそこに入ることはできません。”と語っておられます。
神の国には、このような子どもの特質をもった者たちが入れるのです。
神の国は、理屈の好きな学者や、傲慢になりやすい努力家には、遠い国になってしまうでしょう。
入ることができなくなります。
しかし、神の国は、子どものような素直で信頼する心があれば、
誰でも、いつでも必ず入る事ができます。 あなたは、神の国に入れる確信がありますか。
主イエス様は、伝道を始められた時に、
“時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。”(マル1:15)
子どものような心で、聖書と神ご自身を求め、
イエス様の十字架の死が、私の罪の身代わりであったと信じるならば、神の国に入ることができます。
そして、心が清められ、強くされます。
心が豊かに満たされて、平安と祝福にあふれた将来が見えてくるのです。
【応答の時】